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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

学校の役割

 就職活動という普通名詞が「就活」という固有名詞になって何年か経ちます(ATOKの漢字辞書にも登録されているくらいです)。つまり、それだけ就職難が続いているということになります。
 就活というと主に学生の就職活動を指すことが多いので、本稿もその意味でこの言葉を用いることにします。

 三十年前は会社訪問の解禁日が10月1日であり、そこから就職活動がスタートしていました。その後、就職活動のピークが夏休みに移り、10月1日は内定者の囲い込みが行われる日となりましたが、現在は大学3年生の後半から就活が始まっているのだそうです。 学生が内定をもらうまでには何段階かの面接と筆記試験をこなさなければなりません。現在は売り手市場ですから、その日時は企業が一方的に指定します。当日都合が悪いといえば、「あ、そう。じゃ来なくていいよ。」で終わってしまうのですから、学生にすればそれこそ「万障繰り合わせて出席する」ことになります。こういうことが何回も続くのですから大変です。特に地方に住む学生の場合、大都市の企業に呼び出された場合の交通費の負担も大きくなります。買い手市場だった頃は企業が交通費を負担していましたが、現在はどうなのでしょうか? たぶん自己負担なのでしょう。

 こういう風潮に対し、大学側からは就活の時期をもう少し繰り下げてもらわないと学業に専念できないという苦情が申し立てられていると聞きます。まことにごもっともであり、「即戦力となる学生を養成せよ」という要求を企業と文科省から突きつけられながら、企業によって学生の時間を奪われるのですから、踏んだり蹴ったりというところでしょう。さらに、大学の事情として、学力の低下によりそのままでは大学の授業についてこれないので、新入生に対して高校の授業内容の補講をするところもあるということですから、恨み言の一つや二ついいたくなる気持ちは充分に理解できます。

 昨年の iPad 登場の衝撃を受けて、教科書をデジタル化しようという動きが勢いづいています。将来の国際的な競争社会に勝ち残ることのできる人材を育成するために授業を効率よくできるようにしようというのが主な趣旨のようです。
 企業が学校に要求するのは「優秀な人材を供給せよ」というものであることはいつの時代も同じです。企業が本当にそう考えているのであれば、数社で資金を出し合ってそのための学校を設立した方がよほど「効率」がよさそうなものだと思いますがいかがでしょうか? そこでは企業が求める知識やスキルを教え、卒業後は出資した企業に就職することができる、ということであれば入学志望者は後を絶たないはずです。親は喜んで授業料を負担するでしょうから、学校経営も充分に採算が合うはずなのですが、残念ながらそういう取り組みはまだないようです。
 なぜそういう学校が登場しないのかというと、「優秀な人材」をどのように定義したらいいのか企業の人事担当者にもわからないからではないかと思います。大学の偏差値や学生の成績を重視するのはそのためであり、結局は人事評価の仕組みが企業内にも存在していないからではないでしょうか。
 長くてもせいぜい三十分という面接の間に、この学生が将来わが社にどのような利益をもたらすのか、ということがわかるはずがありません。もしかしたら会社の金を持ち逃げするかもしれませんし、女子社員と駆け落ちする羽目に陥るかもしれません。実際に、そのような不祥事は絶えずどこかの企業で起こっていますが、不祥事を起こした人間を採用した人事担当者が責任をとらされたという話しは聞きません。つまり、人事部というのは主に採用人数に対して責任を負っているのであり、採用した人間が入社後何をするかについては責任を負わないのです。(不祥事が起これば直属の上司が責任を問われることになります。)
 「優秀な人材」というと、目から鼻に抜けるような利口な人間というイメージがあります。それは間違いではないのですが、そういう人間ばかり集めると会社は息苦しくなってしまうことも事実です。
 何百人採用しようと、役員のポストは限られており、社長の椅子は一つしかありません。全員が経営陣に加わることなどできないのですから、「優秀な人材」や「明日の日本を背負う人材」などということにこだわらず、いろいろな人間を採用した方がよほど活気が出ると思うのです。そうやって学校に対するプレッシャーを軽減した方がよほど社会が受ける恩恵は大きくなるからです。

 昔から「読み書きソロバン」といわれるように、就職する際に身につけておかなければならないことは実はそう多くありません。漢字が普通に読めること。自分の考えを文章にすることができること。計算ができること。わからないことがあれば、本を読むか人に訊くかして調べようという行動を起こせる(わからないままにしておかない)こと。基本的なリテラシーはこれで充分です。
 就職ということを前提にすれば、学校は生徒にこれらの能力を身につけさせるために存在すると考えてよいと思います。つまり、それ以外のことは二義的な位置づけに過ぎないのであって必須であると考えなくてもよい、ということです。
 といっても、歴史や音楽・美術・家庭科・体育などの教科が不要だと申し上げているのではありません。日本人が全員がサラリーマンになるわけにはいかないのであって、職人となる人、農業に従事する人、学者になる人、芸術家になる人、スポーツ選手になる人、家庭に入って家族を支える人というのもこの社会には必要です。したがって、それらの人々には勤め人になるための教育以外のコースが用意されることになるのであり、これらの教科は自分がそういう分野に適しているのではないかと気づかせてくれるきっかけを与えてくれます。

 このように考えてくると、学校の役割というのは、基本的なリテラシーを生徒に身につけさせると同時に、保護者が決して与えることのできない「機会」をこどもたちに提供する場であるという2つに尽きるのではないかと思います。
 ここでいう「機会」にはさまざまな意味が含まれます。友人をつくること、人を好きになること、学問やスポーツあるいは音楽や美術でもいいのですが何か熱中できるものを見つけること、等々・・・。学校は生徒に対してその機会を提供することはできますが、それを活かすかどうかは生徒自身の運と行動にかかっています。したがって、百人の生徒がいれば、彼らが学校から得るものはそれぞれ異なるということになります。このことはご自分の経験を振り返ってみれば読者にも同意していただけるのではないでしょうか。
 人間は工業製品ではないので、学校教育によって生徒を均一化することはできません。しかし、企業も文科省も、そして保護者でさえもそこのところを誤解しており、「教育の成果はかくあるべきである」という考えにとらわれすぎています。(保護者の場合、こどもを塾に通わせるのは、あるべき姿を追求しようという気持ちが強く働いているからです。)
 みんなが同じ水準以上の能力を身につけなければならないというのは幻想にすぎません。本来実現するはずがないことを学校に要求し、それができていないという理由でさらに締め付けが厳しくなっていくという悪循環に陥っているように思われます。
 小学校のカリキュラムに英語を導入しようというのはその典型的な例です。わが子に英語ができるようになってほしければ、親がこどもに英語で話しかけた方が学校や塾に期待するよりもよほど効果があります。人間の潜在能力というのはたいしたもので、それが絶対に不可欠だということになると嫌でも身についていくものです。すでに一部の企業では社内の公用語を英語に定めているところがあり、同じ考え方に基づくものであるといえます。

 どうも私たちは学校に対して過大な要求、それも自分にはできない要求を突きつけているように思います。企業が新入社員に対して即戦力となることを期待する気持ちもわからないではありませんが、それを学校教育に期待するのは無理というものです。即戦力とか優秀な人材と言葉でいうのは簡単ですが、では具体的にどういう知識とスキルを身につけていれば即戦力になるのか、また優秀な人材といえるのか、明確に応えられる人事部長は日本全体でも数えるほどしかいないのではないかと思います。
 自分でもよくわからない、他人にきちんと説明できないことを学校に対してやらせようというのは虫がよすぎるというものです。
 同じことは文科省の官僚にもいえます。さらに悪いことに、理屈を言えば現場の教師が働きやすいように環境や制度を整えてやるのが文科省の仕事だと思うのですが、実際には足を引っ張るようなことばかりしているように見えます。自分の仕事ぶりをアピールするために、やたらと現場に対する統制を厳しくしたがるアホな管理職がどこの会社にもいるものですが、同じことが国のレベルでも行われています。そうやって現場の足を引っ張ることでかえって生産性を悪化させているということに気づかないからアホだと申し上げているのです。そういうバカの下で働かなければならない人は可哀相だと思います。

 学校がもうすこしのびのびとできるようにしてあげた方が、結果として私たちが受ける恩恵は大きくなるはずです。
by T_am | 2011-02-06 22:59 | その他