乱射事件を銃規制と結びつけたがる日本のマスコミ
銃の規制が厳しい日本ではこのような乱射事件は起きていません。ただし、乱射事件はないものの、無差別殺傷事件が起こっています。
99年 池袋通り魔殺人事件(2人死亡、6人重軽傷)
下関駅無差別殺傷事件(5人死亡、10人重軽傷)
01年 附属池田小学校事件(児童8名死亡、児童13名負傷、教員2名負傷)
03年 渋谷連続通り魔事件(5人負傷)
08年 秋葉原無差別殺傷事件(7人死亡、10人負傷)
土浦連続殺傷事件(2人死亡、6人負傷)
10年 取手通り魔事件(14人負傷)
ざっとあげただけでもこれだけ起こっています。銃の規制がなくてもこのような凶悪事件は発生していると考えるべきなのか、それとも銃の規制があるからこの程度の被害で済んでいると考えるべきなのか議論は分かれると思います。それでも銃が凶悪犯罪の原因でないことは明らかです。
銃の所持が厳しく規制されている国では銃による殺人事件の件数が少ないということは動かせない事実です。したがって銃を規制することに異を挟むものではありませんが、アリゾナ州で起きた乱射事件に対するアメリカ社会の対応を観察するときに、日本のマスコミがやっているように「銃規制に対する動き」という視点を持ち込むのは余計なことであり、かえってアメリカで今何が起きているかをわかりにくくしているように思います。
12日にアリゾナ州立大学で行われた追悼式にはオバマ大統領も出席し、「今回の事件を対立の火種にしてはならない」という演説を行い、多くの人々に感銘を与えました。「対立」とはなにかというと、人種問題、宗教の対立、イデオロギーの対立という問題がアメリカにあるのです。
アメリカ国民の様子をみると、今は銃規制について論じているよりももっと重要なことがあるという意識が共通しているかのようにみえます。これは考えすぎかもしれませんが、もともと多くの民族が集まってできているアメリカには多様な宗教・文化・生活習慣があり、そこに対立を持ち込むことによって秩序を脅かすのはこれ以上我慢できない、という意志がアメリカ国民の間に生まれてきているかのように、私には思えるのです。
その一例がサラ・ペイリンに対する批判でしょう。「ティーパーティ」の活動を通じてペイリンがアンチ・オバマの象徴であるかのように思われていることはご存知の通りです。そのティーパーティの一派から、今回撃たれたギフォーズ議員は重点落選ターゲットとされており、彼らのサイトにはギフォーズ議員が所属するアリゾナ州に対し、銃の狙撃マークが表示されていました。
事件後このことが取りざたされたのですが、誰もがサラ・ペイリンを意識していたことは事実です。ほとんどいいがかりといっていいこの批判に対し、サラ・ペイリンは追悼式の直前にビデオ・メッセージを発表し、反論を行いましたが、逆に「ペイリンには追悼の気持ちがない」とか「利己的である」という批判を浴びているようです。
今日になって、共和党のマケイン議員が追悼式でのオバマ大統領の演説を賞賛する論文をワシントン・ポストに寄稿したというニュースが流れました。
オバマ大統領とマケイン議員との間には政策をめぐって相容れない意見の対立があることは本人も認めていることですが、それでも「対立によって相手をねじ伏せようとするのはやめよう」というオバマ大統領のメッセージにいち早く応えた格好になったわけです。
私には、このような風潮が今後アメリカでは主流になっていくように思えます。今回の事件は、アメリカが今後どの方向に向かおうとしているのかを窺い知る格好の事例となっているようです。そういう視点で、この事件に関する一連の報道を受け止めたらいいのではないでしょうか?