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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

逸脱するコミュニケ

 コミュニケーションの日本語訳は「意思疎通」ということになるのでしょうか? もっとも辞書をみると、意志のほかに感情や思考を伝達しあうことということも書かれていますから、厳密にいえば違うのかもしれません。
 最近感じるのは、コミュニケーションという言葉に「情報交換」というニュアンスが加わっているということです。
 「コミュニケが悪い」といういい方をすることがあります。これは、お互いの気持ちがばらばらである、という場合にも用いますが、本来知っていて当たり前のことを知らない、という場合にも用いられているように感じます。
 言葉というのは時間の経過とともに変化していくものですから、これに個人が異を唱えてもどうにもなるものではありません。ここで申し上げたいのは、コミュニケーションという用語の意味ではなく、現在用いられている用法が人に与えている影響の方です。(今回はビジネスに限って話しをすることにします。)

 まず結論から申し上げましょう。それは、相手の心中を忖度することのできない人が増えているということです。
 ビジネスの目的とは、結局相手との間で契約を成立させることにあります。契約という言葉に馴染めなければ、「合意」と言い換えることもできます。契約(合意)は、「○○をしてほしい」とか「○○をしたい」という申し入れに対して、それを承諾することによって成立します。(これを諾成契約といいます。これに対し要物契約というのがあって、当事者間の合意のほかに物品の供与をもって契約が成立するというものです。以上余談。)
 実際のところは、先方の「○○をしてほしい」とか「○○をしたい」という申し入れをそのまま呑むということもあるでしょうが、そのままではこちらが困る(不利益を被る)という局面も少なくありません。
 その場合、相手と交渉することによって、これならば受け入れてもよいという妥協点を探るということがごく当たり前のように行われています。買い物に行って「値切る」というのがその典型的な例でしょう。商品についている値段(定価)で買うというのであれば交渉は不要です。相手の「この値段で売りたい」という申し入れに対し、「その値段では買いたくない。しかしその商品は欲しい。」という気持ちがあるからこそ、値切るという交渉を行うわけです。
 この場合双方にある思いは、「この商品を売りたい」「この商品が欲しい」というものです。そして、交渉というのは、双方が妥協できる点まで歩み寄るということでもあります。(ただし、「相手の弱みにつけ込む」とか「足下を見る」という例外もあります。)
 その際に、相手の気持ちを理解し、本音がどこにあるのかを探りながら話しをするということによって妥協点が見つかるわけです。

 ところが、コミュニケーションとは情報交換であると思っている人には、先方の気持ちを理解するという発想がありません。相手の話す言葉を額面通り受け取るか、あるいは交渉とは相手を論破し自分に従わせることだと思っているかのどちらかであるようです。
 仕事柄いろいろな人に会いますが、自分が買う立場になったときに、とたんに強気になる人が多いように思います。
 「お客様は神さまです」という言葉があるように、世の中お金を払う立場の方が強いということになっています。例外は昔の国鉄と病院、それに先生がそうでした。時代が変わってしまい、すっかり凋落してしまいましたが、今も昔も威張っているのは税務署と政治家、それにマスコミくらいのものでしょう。
 モンスター・ペアレントといわれる人たちの心の奥には、「自分は授業料を払っているのだから、学校や教師にはその対価として自分を満足させる義務がある」という気持ちがあると思います。比較的裕福な家庭の親ほど教師や学校に対し理不尽な要求を突きつけるというのは、「買い手」である自分に対して「売り手」がちやほやしてくれることに慣れているというのがあるのではないでしょうか。
 
 1995年頃からでしょうか、普通の社会人が企業相手にまるで「ヤーさん」みたいな要求を突きつけていると感じるようになりました。企業に対して苦情を述べることによって「いい思い」をした人がまわりに吹聴し、それならば自分も「いい思い」をしなければ損だとばかり虎視眈々と機会を狙っている。そのような風潮が広まってきたように感じます。
 言い換えれば、価値観の中に「損か得か」という基準の占めるウェイトが大きくなってきたということになります。

 そのような風潮が蔓延してくると、ビジネスはゼロサム・ゲームとなってしまいます。その一端が非正規雇用労働者の増加であり、従業員に対する利益の還元よりも内部留保を優先するという企業の姿勢に現れているように思われます。

 そのことを非難してもどうせ聞いてはもらえないのですが、私がどうにもわからないことがひとつあります。それは、「この人たちは、未来の自分が敗者になっているかもしれないということを想像することができないのだろうか?」ということです。
 死ぬまで勝者であり続けるという幸運な人は極めて稀な存在であるといってよいでしょう。仮に、その人が死ぬまで勝者であり続けたとしても、その人の家族が同様に勝者であり続けるという保証はどこにもないのです。
 世界史をみても、有史以来高貴な身分でありつけた家系というのは日本の天皇家の他には例がないのではないでしょうか。その天皇家でさえも、鎌倉時代以降明治になるまで長い不遇な時代を過ごしたわけですから、未来永劫勝者であり続けるというのは不可能であると断言してもよいと思います。

 その人の中で、損か得かという価値観が大きなウェイトを占めるようになると、誰もが「その人が支払った物品の価値以上の対価を受け取ることができる者が賢いのだ」と思うようになります。そうすると、必然的にその矛先は自分よりも立場の弱い人に向けられることになります。
 こうなるとビジネスは勝ち負けとなってしまいます。この人たちの頭の中にあるのは、「利益の総和は常に一定であり、相手の取り分を減らせばその分自分の取り分が増える」という単純な計算です。経営者(あるいは上司)と呼ばれる人の中にもこういう発想しかできない人が意外と多いことは、身の回りを見渡せばご納得いただけるものと思います。
 
 この人たちに共通しているのは想像力の欠如ということであり、その中には、未来の自分について勝者であると根拠なしに思い込んでいるということと、他人の気持ちを推し量ることができないというものも含まれます。

 この傾向は年齢や年代には関係がないようです。

 人が言葉の意味を変えていくということがあれば、言葉が人に影響を与えるということもあります。
 将来において、コミュニケーションという言葉が単に情報交換を意味するようになるようなことがあれば、そのときは人間関係が定量的な価値基準によって左右される世の中になっているのかもしれません。
 なにしろ、「自分よりもレベルが下の人とつきあってもしょうがない。」そういうことが真面目にいわれる時代なのですから。


追記
 仮に、あなたが現在勝ち組であるとして、これからもご自分が勝ち組であり続けると思っているのであれば、それは次のうちどれかです。

1.卓越した能力と強運の持ち主である。
2.たいしたことがなくてもさも重要であるかのようにアピールできるプレゼン能力の持ち主。(そのうちボロが出ます。)
3.他人を蹴落とすことに長けた腹黒さの持ち主。(他人は皆善人であると思うのは誤りです。あなたよりももっと腹黒い人はいるのであり、そこに気づかないと転落が待ち構えています。)
4.今までの努力が運もあって報われた。(いつのまにか時代は変わるということに気づかないとダメですよ。)
by T_am | 2011-01-10 22:33 | その他