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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

仕分け人は正義の味方

 今回で3回目となった事業仕分けも今日が最終日となります。回を重ねるごとにしわけ人にと呼ばれる人たちの表情が険しくなってきているように感じるのは私だけでしょうか?

 事業仕分けは、その第1回から利権にしがみつこうとする悪の官僚組織とこれに切り込む正義の仕分け人という構図で捉えられていたように思います。仕分け人の容赦ない質問に対し官僚が答えに詰まるのを見て、観客が溜飲を下げるという図式はまるで水戸黄門のようです。

 それだけに事業仕分けのあり方がこれでいいのかな、という疑念も湧いてくるのです。

 限られた仕分け人たちが限られた時間の中で次々と判断していくというのは、なんだか乱暴なように私には思えます。仕分け人による合議制をとることで判断の誤りを回避しようとしているかのようにみえますが、議論にはその場の空気というものがあって、得てして結論が空気に流されるということもあるものです。
 なにがいいたいかというと、仕分け人が誤りを犯さないと何が担保しているのだろうか? という疑問を感じてならないということです。

 第1回の事業仕分けの際に、スーパーコンピュータの開発を巡る議論の中で、「2番目では駄目なんですか?」という発言があって、科学者たちから猛反発を受けたのは記憶に新しいことです。この出来事は、世の中には(仕分け人たちが得意とする)経済原理に基づく思考法になじまない問題も存在するということを気づかせてくれました。しかし、仕分け人たちがそのことを自覚して議論に臨んでいるかどうかはわかりません。むしろ、案外自覚していないのではないか、とも思えるのです。

 「内省のない正義はやがて暴走する」という命題があります。マンガや映画の中で、これまでヒーローとして様々なキャラクターが創造されてきました。(これは日本だけでなくアメリカでも同じです。)
 それらのキャラクターのうち、どれでもいいので思い出していただきたいのですが、どのヒーローも「自分が持っている力の使い方はこれでいいのだろうかという疑問に悩む」という設定がされています。というのは、自分の持つ力があまりにも強大であるがゆえに、力の使い方を誤れば大変な災厄を招いてしまうという事実に、どのヒーローも気づいてしまうからです。
 物語では、そういう設定をすることによって、ヒーローの人間像に深みを持たせることができるからそうしているわけです(逆に言えば、絶対的な正義というキャラクターは薄っぺらな感じがして、記憶に残らないといえます)が、このような疑問は案外的を射ているのではないかと思います。
 というのは、「ヒーローの持つ強大な力」を「国家権力」と言い換えても、この疑問は成り立つからです。
 そうなると、自分の力の行使は本当にこれで間違っていないのか? という疑問を持ち続けることのできる人間のみが強大な力を持つことを許されるということになります。しかし、これは物語の世界の話であって、現実にはそのような「できた人間」がそういるわけではありません。むしろ。そうでない人間の方がが権力を志向する傾向が強いといってもいいかもしれません。無自覚な権力者のもたらす弊害は歴史をみれば枚挙にいとまがないほどですから、これに懲りた人類は「選挙」という制度を発明しました。つまり、誰かに権力を託すにしてもそれは期限付きであって、期間が満了したときには、その人に権力を託したことが適切であったかどうか(つまり再度権力を託してもよいかどうか)を投票によって審判するというものです。

 事業仕分けも3回目となり、仕分け人のうちメインキャストは固定してきているようです。悪の官僚組織VS. 正義の仕分け人という構図はご本人たちも充分意識しているはずなので、それなりの成果をあげてくれるとは思いますが、テレビ中継されている議論の様子、特に仕分け人たちの顔つきを観ていると、なんだか暴走しそうな危うさが感じられてなりません。
 本来であれば、議論を2~3回に分けて、1回目は状況と問題点の提起を行い、メンバー以外からもいろいろな意見が出てくるのを見定めたうえで、2回目3回目の議論を行って結論を出すという手法の方が確実ではないかと思います。
 官僚にしても一発勝負で後がないというやり方は不本意でしょう。今まで自分たちがやってきたことが否定されることが最初から決まっている中で、仕分け人に対し説明をさせられるのですから、これはもう道化以外の何者でもありません。

 そういう議論の進め方でいいのでしょうか?

 民主党政権が誕生して既に1年以上が経とうとしています。「政治主導」を標榜するわりに、事業仕分けの場で説明するのは官僚ばかりというのも気になります。
 第1回の事業仕分けのときは、それまでの自民党政権下で行われてきたことの否定という意味合いがありましたから官僚に答弁させて問題はなかったのですが、今回は違います。
 大臣を初めとする政務三役が主導して省内の改革を進めていくというのが「政治主導」でしょう。ところが改革を担当するのは仕分け人なわけですから、各省庁の政務三役は今まで何をしていたのかということになると思いませんか?
 そういう意味で事業仕分けというのは身内の恥を炙り出しかねないところがあるのですが、終始官僚に答弁させることによってそのあたりは曖昧になっています。
 聞くところによれば、仕分け人になりたい民主党議員は大勢いるのだそうです。正義の味方として国民に強烈にアピールできるわけですから、次の選挙はかなり有利になると考えた議員がそれだけ大勢いるということなのでしょう。
 しかし、悪の官僚組織VS.正義の仕分け人という構図をいつまでも解消できないでいる(そうなる可能性は極めて高いと思います)と、今度は民主党政権の統治能力に疑問が突きつけられることになってしまいます。人気取りのつもりでやっていることが逆に不信感を招いてしまうというのは皮肉なものですね。
by T_am | 2010-10-31 00:20 | その他