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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

コンプライアンスへの取組み方でわかる日本人の共通項

 コンプライアンス(法令遵守)のセミナーに出席すると、最初に教えられることは、違反した企業がそれぞれどのようなペナルティ(損害)を被ったかという実例集です。それを聞いた受講者は、これは大変だということで、会社に帰ってから社内向けの講習会でそのことを紹介する、というのがどこの会社にもみられるパターンではないでしょうか?
 ここで面白いのは、法令に違反してはならない理由として、それに背いた場合のペナルティがあるからだと私たちは思っており、それに違和感を持つことはないということです。

 なぜなのでしょう? 不思議に思いませんか?

 私がこどもの頃(もう数十年も前になりますが)、親に怒られるときの決まり文句というのがあって、「(そういうことをすると)よその人に怒られるぞ」という意味の怒られ方をするのが常でした。そういえば、大人になって他の県へ行ったときに、スーパーの店内で母親が幼いこどもを叱るときに「お店の人に怒られるでしょ!」と怒鳴っていたのを覚えています。してみると、このような躾のしかたは「村社会」に暮らす日本人に共通したものなのかもしれません。ただし、現代では「村社会」もだいぶ解体してきているようですから、今の親たちがわが子にどのような叱り方をしているのかはよくわかりませんが。

 日本では長い間、大半の人が裁判所とは無縁の生涯を送るという状態が続いてきました。というのは、これらと関わりを持たずに平穏無事な人生を送るのがよいと思われていたからであり、法律にどのようなことが書かれているのか知らなくても、常識だけで生きていくことができたからです。そのような社会では隣人と争いごとを起こさないように気をつけていれば大過なく過ごすことができます。
 日本人がルールや規則を、疑いもなく従順に受け入れるというのはこの辺の事情があるように思います。大事なのは軋轢や問題を起こさないことであって、そのためには規則を守ってさえいれば間違いないからです。
 そこで、規則を破ったときにどのようなペナルティが科せられるかを教え込んでおけば、誰も規則を破る者は出てこないということになったのだと思います。

 しかし、規則には2種類あって、人類が長い歴史の中で自然発生的につくりあげてきた規則もあれば、現代のように法によって定めた規則もあります。前者であれば、その規則の正当性有効性は長い時間をかけて検証されているので何の問題もないのですが、法によって定められた規則の中にはずいぶんとおかしなものもあるというのが実情です。そのようなものまで、「お上が決めたことだから」と無批判に受け入れるというのはいかがなものかと思います。

 「個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)」というのがあります(長ったらしいので、本稿では以下単に「法」ということにします)。平成13年に成立した法律には欠陥があり、それが社会の混乱を招いていると私は考えています。
 そもそも個人情報とは何を指すのかといえば、「特定の個人を識別できる情報」と「法」で定義されています。わかりにくいいい方ですが、要するに一人の人間を他の人と区別するために必要な情報という意味であり、プライバシーとは意味が異なります。
 そこで「特定の個人を識別できる情報」とは具体的には何をいうのかが問題となりますが、実は、氏名と住所の2つの情報さえあれば「特定の個人を識別」することができるのです。それ以外の、生年月日・性別・電話番号・勤務先(学校)・年収・家族構成などは、それらがあれば個人の特定を揺るぎないものにすることができますが、個人を特定するために最低限必要な情報ではありません。どちらかというとプライバシーの方に属する情報であると考えてよいと思います。
 たとえば、契約書に署名捺印するときは住所と氏名を自筆することになっています。そうすることで、契約の当事者がその人であると特定できるからです。氏名だけであれば同姓同名の人がいる可能性もあって個人を特定することはできませんが、住所も一緒に書くことによって、それがこの世にただ一人であることが立証できるという理屈です。
 ただし、先ほども述べたように、氏名と住所以外の情報はどちらかというとプライバシーに属する情報ですから、安易に取り扱っていいというものではありません。「法」では、このあたりの区別が曖昧になっており、そのことが個人情報の取扱いを巡る誤解と偏見を生み出す原因となっているように思われます。(なお、私個人の見解では、氏名と住所だけであれば、たしかに個人を特定するのに必要最低限の情報であるけれども、特段保護するほどのものではないと思っていることを申し上げておきます。)

 個人情報の取り扱いを巡る誤解と偏見の一例として、学校ではクラス名簿がなくなったと聞いたことがあります。昔であれば、クラス替えが行われるたびに、生徒の氏名・住所・電話番号・親の職業を記載した名簿が作成され、クラスで配布されたものですが、現在はそれがありません。というのは、個人情報にかかるからと拒む親がいるからなのだそうです。(親の職業まで名簿に記載するというのは私もどうかと思いますが・・・)
 「法」が保護のために定めているのは、(過去6ヶ月以内に5千人を超える)個人情報を持っている事業者に対し、原則としてあらかじめ本人の同意がない限り第三者に提供してはならないというものであり、また、本人に対し個人情報の利用目的を通知または公表しなければならないというものです。
 したがって、個人情報だからといって親が自宅の住所や電話番号を学校に教えるのを拒むというのは「法」とは何の関係もないことがわかります。むしろ個人情報[保護」法という名称を曲解して主張しているに過ぎないのです。
 このような基本的な情報をクラスの生徒や親に対して公開するかどうかは、それによって得られる利益と失われる利益の双方を考慮しないと決めることはできません。たとえば、法務局には登記簿があって、それを見れば誰でもその管内の土地や建物の所有者が誰で、どこに住んでいるかがわかるようになっています。これなども立派な個人情報ですが、公開をやめないのは、公開することで社会全体が得る利益の方が大きいと判断されているからです。
 ですから、自宅の住所や電話番号の公開を拒む親に対して、学校はこのような議論をした方がよいと思います。(ただし、そのような手間暇をかけるだけの余裕があるかどうかは別な問題となります。)実際には、連絡網として、クラスの生徒の名前と電話番号を記した紙が配布されているのですから、そこに住所が加わったとしてどれほどの実害が生じるというのでしょうか。用事があれば訪ねていくこともあるでしょうが、得に用事もないのに訪ねていくほど現代人は暇をもてあましているわけではありません。
 しかし、面倒なことに関わるのが嫌なせいか、そういう議論を行う学校があると聞いた例はありません。これは企業でも同じことです。
 企業にはプライバシーポリシーという文書があって、「個人情報保護基本方針」と訳されているように、企業が個人情報を取得する目的とどのように扱うのかが記されています。「法」はそれを個人に対し、「通知」するか公表することを求めていますから、企業のホームページに掲載されていることが多いようです。ここで「通知」とカギ括弧をつけて書いたのは、特に説明する義務までを負っているわけではないということを強調したいからです。実際に生命保険やクレジットカードの契約にあたり、企業の担当者からプライバシーポリシーについて説明を受けたという人はまずいないはずです。クレジットカードを作る場合、申込書の裏側に細かい字で書いてあるのを読みなさいということになっており、それで「通知」したことになるのです。
 したがって、企業の方でも担当者に対し、わが社のプライバシーポリシーはこうであるときちんと教育しなくてもよいということになり、結局コンプライアンスに取り組む部署の人間だけが知っているという事態を招くことになります。

 社内にコンプライアンス委員会などの専任部門を設けている企業は増えていますが、従業員に対して法令の教育をきちんと行っている企業がどれだけあるのか疑問です。私たちの身近なところでいえば、小売業では景品表示法・家庭用品品質表示法・食品衛生法・消防法など遵守しなければならない法律はけっこうあります。これらの法律の規定が従業員に対しどれだけ教え込まれているのか、それを知りたければその店へ行ってみることです。
 売り場に立って天井を見上げると防火シャッターやスプリンクラーが設置されていることがわかります。防火シャッターが降りるところに商品や什器が置いてある店、スプリンクラーから放水される水を途中で遮るようにして商品を積み上げている店というのは、例外なく消防法の教育を怠っている店であると考えてよいでしょう。甚だしい場合は、売り場の一角に「消火器」というプレートが取り付けられているにもかかわらず、消火器が置かれていないというところもあります。
 身近な例ということで、たまたま小売業を引き合いに出しましたが、他の業界も似たり寄ったりであるといえます。むしろ企業の本音は、何か問題が起きたときに責任を追及されないようにするにはどうしたらいいか、というところに関心があるというところでしょう。コンプライアンス(法令遵守)というのはその隠れ蓑にされているようにみえます。

 なぜこんなことが起こるのかというと、原因のひとつに、わが国ではそのような教育が長年行われてきたから、というのがあるのではないかと思います。
 試験勉強というと「暗記」というイメージが思い浮かぶように、生徒に対し知識を授けることに重点が置かれた教育が行われてきました。そこでは、「なぜそうなるのか」などと余計なことを考える暇があったら、問題の解き方のパターンをひとつでも余分に覚えた方がマシということになっています。(実際、受験は、他人より多くの知識と問題の解き方のパターンを覚えている生徒の方が合格するという仕組みになっています。)
 これを長年繰り返していると、よほどのひねくれ者は別にして、余計な詮索をするよりも結論や結果だけを覚えた方がいいという人間が量産されることになります。自分で考えるというのは面倒なことであり、それよりは決まったことを受け入れたほうが楽だと思う人が増えるのです。

 企業の現場からは、個人情報保護法のように欠陥のある法律に対して疑問や批判の声が上がってくることはありません。法律を読むよりも要点だけを教えればいい(教えてもらえばいい)という人たちが多いので、そもそも問題があるなどという認識がないからです。 その結果、誤解と偏見が生まれ、社会に混乱を招くことになるのですが、それを収集しようという動きは今のところありません。その理由は、前回申し上げたように、そのようなことに精を出しても組織の中では評価してもらえないからです。


付記
 法律や契約書にかかれている文章はどうしてあんなに読みにくいのでしょうか?
法的な文書を作る際の要点は、曖昧さを排除して他の解釈ができないものにするというものですが、それにしてもひどいと思います。
 そういう状況を考えると、要点だけがわかればいいという気持ちにも一理あるかなと思ってしまいます。
by T_am | 2010-10-17 21:39 | その他