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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

科学とプレゼンテーション

 大阪地検特捜部の前田元検事によるFD改竄事件に関して立花隆さんが今月初め新聞に寄稿しています。検察による「初めにストーリーありき」という姿勢がこのような事件を起こした背景にあるという指摘に対する反論を展開されており、その大意は、初めにストーリーをつくり、それに基づいて操作を進めていく中で、ストーリーとリアルな現実とを対比させて検証しなければならず、ストーリーと現実との間にずれが生じたらストーリーの方を修正するのが当然である、というものです。前田元検事が行ったことは、自分のストーリーに合うように証拠を改竄したことですから、これは科学者が、自分の仮説に合うように実験データを改竄することに等しいのであって、そのようなことを行う人物は社会から追放されなければならない、とも述べておられます。

 科学では、現実という実験(観測)データに対し、なぜそのようなことが起こるのかを合理的に説明するための「仮説」が設けられます。これが立花隆さんがいわれる「ストーリー」にあたるのですが、それが正しいかどうかは別の現実(実験データ)と対比して検証するという作業が不可欠となります。そこでずれが見つかれば、それは仮説の方が間違っているということになるので、仮説を修正するか破棄しなければなりません。その繰り返しによって真理に到達しようというのが科学です。
 というのも、真理とは認識するものであって存在するものではないので、その人がこれこそ真理だと思い込んでしまえば(本当は間違っていたとしても)そうなってしまうからです。

 しかしながら人間の心は次の2つの状態の間を振り子のように揺れ動いています。

(1)これこそが真実だと思い込んで、それに反する事実に向き合おうとしない。
(2)様々な事実を集めて自分なりの仮説(ストーリー)を見つけようとする。

 人は感情的になると相当に教養のある人でさえも(1)の状態に自らを追い込んでしまいます。人間は自分が見たいと思うものを見て、聴きたいと思うものを聴く生き物ですから、このような「思い込み」に陥りやすいのです。

 今日のニュースで、中国で大規模な反日デモが行われたと伝えられていました。尖閣諸島で起きた中国人船長の逮捕事件がきっかけで起こった反日行動は(1)の典型的な例であるといえますが、このことは私たち日本人の中に中国に対する反感をひきおこすことにつながりますから、私たちも(1)の思い込みに陥る可能性があります。
 ごく一部の人はこのような思い込みから免れる方法を自然と身につけていますが、大部分の人はそうではありません。そこで不可欠となるのが、正確な情報が遺漏なく提供されるルートが社会に確保されていること、そして教育を通じて科学的な考え方が伝えられることです。
 残念なことに、マスメディアが提供するニュースの対象は国内とアメリカの情報に偏っており、アジアやアフリカの情報はほとんど無視されているのが現状です。また、北朝鮮や中国に関する報道は比較的多いといえるのですが、それもネガティブなものに偏っている傾向があることは否定できません。それが続くと他の国や国民に対し特定のイメージが定着することになり、いったん定着したイメージは容易に覆ることがありません。

 人間はあり合わせの情報でものごとを判断しているということを、特に権力者の身近にいる者たちはよく知っています。彼らは権力者に対し偏った情報を吹き込むことができるという特権をフルに活用して、権勢をふるうことに情熱を注いできました。中国の歴代王朝における愛妾、宦官がそれにあたりますし、日本でも同じような地位にいる者たちが権力をほしいままにしてきたという事例があります。(室町幕府における松永弾正がその代表的人物ですが、面白いことに彼らは皆後世からは悪人というレッテルを貼られています。それというのも庶民の感情を逆撫でするものがあるからなのでしょう。)
 愛妾がピロートークで権力者に対し家臣の悪口を吹き込む。こう書くといかにも性悪女のようにみえますが、女房が亭主に向かって他人の悪口をいうのはどこの家庭でもみられることです。同じことは男もやっているのであり、上司や同僚に向かって気に入らない奴の悪口を吹き込むというのはどこの職場でも行われています。俺は他人の悪口を言ったことがないという人でもない限り、誰でも似たようなことをしているのです。
 悪口というくらいですから、そこで語られる情報は当然偏ったものになります。仮に、褒めるべき行為があったとしてもそれは黙殺されます。つまり、私たちは見たいと思うものを見るし、聴きたいと思うものを聴くと同時に、伝えたいと思うことを他人に伝えるという性質を持っているのです。
 伝えるべき事柄を意図的に取捨選択することに普段から慣れていれば、そこに利害が絡んだときに、伝えるべき内容を「弄(いじ)る」というのは指呼の間に過ぎません。心理的なハードルは思いのほか低いのです。

 誹謗中傷というのはこのようにして行われます。困ったことに、人は誰でも、たとえ間違っていることでも何度も聞かされているうちに、それが本当のことだと思ってしまうという傾向があります。その被害に遭われた経験をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、誹謗中傷はいつでもどこでも起こりうるのだと理解しておいた方がよいと思います。
 私たちが他人の悪口を捏造すれば中傷となりますが、警察や検察が同じようなことをすればそれは冤罪となります。
 大阪地検特捜部で前田元検事によって行われたFDの改竄の背景には、初めから有罪とすることを前提に事件化するという検察の体質があるのではないかという疑いが持たれています。つまり、検察の内部では誰もが似たようなことをしてきていたのではないか? という疑いです。
 そのこと自体は厳しく糾弾されなければなりませんが、もっと広い目で見れば、何も検察だけの問題ではないということに気づきます。
 
 今日ではプレゼンテーションという手法がどこの組織・職場でも用いられています。プレゼンテーションというのは、自分が立案した企画や意見を説明することを指し、その目的は自分の考えを採用してもらうことにあります。そのため、用いられる資料はわかりやすく訴求力が高くなるように編集・加工されなければなりません。当然「不必要だと思われる」データはカットされることになりますし、特に強調したい事実は誇張されることがあります。そのこと自体は合法的であり、道義的にも問題はないといえるのですが、プレゼンテーションに慣れた人ほど暴走する危険性が高くなるともいえます。
 
 ここで、明らかに暴走と思われるプレゼンテーション資料の事例をご紹介しましょう。
下記のURLはチームマイナス6%のサイトにある資料です。

http://www.team-6.jp/futsugou/index.html

 これが暴走であるという理由は、色使いがおどろおどろしく扇情的であること(文章も体言止めと感嘆符が多用されています)、事実の一部しか伝えていないことによります。このブログで既に何度も申し上げたように、不安を煽ってそこにつけ込もうという意図(私はこれを「霊感商法」と呼んでいます)が感じられるのです。

 このサイトには事実やデータの改竄はないかもしれませんが、資料を「効果的に」使って他人に信じ込ませようという意思があります。そのような思いが決して特殊なものでないことは、「鉛筆を舐める」という慣用句があることによって証明されているといってよいでしょう。情報を操作したり数字を書き換えるという意味のこの言葉は、そのような行為が広く行われてきているということを意味しています。
 そのように考えると、私たちの社会では「鉛筆を舐める」ことを忌避する意識が低いということに思い当たります。ですから、前田元検事の行ったことは確かに犯罪行為なのですが、程度の差はあれ、同じような行為は至る所で行われており、また私たち自身がそのような行為に荷担する(もしくは積極的に実行する)ことも充分あり得るということを自覚すべきでしょう。

 このようなことが行われるというのは、手段はともかく手柄を立てた者が評価されるという風潮が社会の中にあるからです。誰でも、よく思われたい、出世したいという気持ち(上昇志向)はありますから、何をすればプラス評価に結びつくか、何をしてもプラス評価にはならないか、ということに対する嗅覚は自然と身につくようになります。
 まして、トップが率先して実績主義・実力主義を標榜するところでは、やがて組織ががたがたになっていきます。というのは、手柄を立てない限り、それ以外のことに心血を注いでも誰からも評価してもらえないことに管理職や担当者が気づいてしまうからです。そうなると、手間がかかって成果の乏しい仕事は他人に押しつけ、自分は見栄えのする仕事だけに取り組むという輩が横行するようになりますし、管理職はといえば、部下が仕事しやすい環境をつくりあげることよりも、部下を道具として扱うことの方に熱心になっていきます。
 そういう管理職がいる職場では、ミーティングは何のために行われているのかといえば、上に報告する材料集めが目的となっています。どれだけミーティングに時間を費やしても管理職が判断しない、方向性を示さないという場合、そのミーティングは管理職の保身のために設けられていると考えてよいと思います。そのような管理職の関心事は、どうすればトップに怒られないか、どうすれば気に入ってもらえるかというところにあり、その辺の嗅覚のすぐれた者ほど出世していくことになります。それを見ている下の者も当然その真似をすることになりますから、それが企業のDNAとなって受け継がれていくことになるのです。

 前田元検事は、そのような特殊に見えるかもしれませんが実は誰もが持ち合わせているDNAを色濃く受け継いだ末裔であると考えられます。ですから、検察という組織をいくら責めても今後同種の事件が根絶されるということにはつながりません。前田元検事の上司だった人たちが最高検の捜査に真っ向から抵抗する姿勢を示しているのはこのあたりの事情をよく物語っているといえます。すなわち、当事者に責任をとらせてもDNAを根絶することにはならないからです。(元上司らを免責すべきだと申し上げているわけではありませんので、誤解しないでくださいね。)
 むしろ、そのようなDNAが誰にでも受け継がれていることを直視して、DNAが発現しない、たとえ発現しても影響を及ぼさないような仕組みを講じることに意識を向けた方がはるかに社会にとって有益であると思います。


付記
 このことは大きなテーマなので、今後も折に触れて取り上げてみたいと思います。
by T_am | 2010-10-16 23:55 | その他