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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

NHKが伝える「大絶滅時代」

 NHKが朝のニュースで「大絶滅時代」という特集を放映しています。何回かのシリーズのようですが、ご覧になりましたか?

 「大量絶滅」という用語があって、短期間に多数の生物が同時に絶滅する現象をあらわす言葉です。大量絶滅の原因は地球規模で起こった天変地異であることが知られており、超大陸の分裂や巨大隕石の衝突(恐竜が絶滅した原因とされています)などがあります。
 大量絶滅が起こると、優位にあった生物種が絶滅してしまうので、それまで下位にあった生物種が繁殖して上位を占めることがあります。現在地球上で哺乳類が優位を占めているのは恐竜が絶滅したおかげであるといえます。

 NHKが「大絶滅時代」という新しい用語を用いているのは、現在絶滅の危機に瀕している生物はおよそ一万七千種類といわれており、かつてない規模で生物の絶滅が進行しているからだというものです。ちょうど名古屋で生物多様性条約第10回締約国会議が開かれることもあり、私たちに対し警鐘を鳴らす意図で「大絶滅時代」という造語をしたのだろうと想像されるのですが、ちょっと違和感を覚えます。

 特定の種類の生物が絶滅するというのはいつの時代でも起こってきたことであり、現代でもそれは変わりません。誰でも知っている例としては恐竜の絶滅があげられます。これは、およそ6500万年前に巨大隕石が地球に衝突したことが原因だったと考えられています。
 地球の王者だった恐竜が姿を消したことによって、それまでひっそりと暮らしてきた哺乳類(当時はリスのように小型の生物だけしかいませんでした)が急速に種類を増やすようになり、ついには人類が登場することになりました。ですから、考えようによっては、今日の人類の繁栄の要因のひとつは恐竜の絶滅があるともいえるのです。
 しかしながら、自然現象は常に中立的です。そこには、いかなる政治的思想的な意味合いも含まれておらず、人間の意思とは無関係に自然は変化していきます。そこに意味づけをしているのは人間の方であることに気づくべきでしょう。

 かつて佐渡でトキが絶滅したのは、狩猟によって個体数が減っていたのと農薬の使用により餌となる小動物が激減したからです。人間がトキを絶滅させるような環境をつくったという事実は、そのような環境を放置しておくことはやがて人間にも悪影響を与えるのではないかという反省から、トキを保護し繁殖させようという運動に結びつきました。そこで重要なのは、自然に帰したトキを人間は観測しても手助けをするわけではないということです。なぜなら、トキは人間のペットではないからです。自然の中で生きていく以上、餌を自分で獲らなければなりませんし、他の動物に襲われることだってあります。厳しい生存競争を生き抜いてつがいをつくり、繁殖していくというのが自然の姿です。そのような状況になるには、現在のところ、トキの個体数がやや不足しているかもしれません。自然の中で暮らすトキが繁殖するにはまだ何年もかかるかもしれません。

 生物多様性を維持すべきであるという主張の背景には、人間が環境に悪影響を及ぼしたのではないかという思いがあるといってよいでしょう。日本に本来存在するはずのないブラックバスやアメリカザリガニが各地の生態系に影響を与えるようになったというのは明らかに人間が関与したからだといえます。
 しかし、外来種といえばすべてが悪者であるかのようにいわれていますが、実際にはそうではありません。たとえば、毎年この時期になると各地で花を咲かせる彼岸花はもともと日本の自生種ではありません。稲作の導入とともに土に紛れ込んでやってきたものと考えられています。
 彼岸花には毒があって、モグラなどの被害を防ぐために畦や土手、墓場に植えられてきました。すなわち、人間がその場所の生態系に積極的に関与するために彼岸花を植えたといえるのですが、生物多様性を維持するために彼岸花を移植するのはやめましょうという人はいません。
 他にもジャガイモは江戸時代の初め頃日本に持ち込まれた外来種です。サツマイモは救荒食となることから、江戸時代の中頃青木昆陽が将軍吉宗の命を受けて関東で栽培することに成功しました。その後サツマイモの栽培が普及したことにより、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったとされています。
 
 このように、外来種が在来種の生態系を脅かしているから外来種を排除すべきだと単純に考えてしまうのはいかがなものかと思います。中にはセイタカアワダチソウ(アメリカ渡来の外来種)のようにススキを追いやってしまった植物もありますが、誰も問題にはしていません。
 むしろ問題とすべきは、外来種を安易に持ち込んで、その後きちんとした管理もせずにほったらかしにしておくことの方ではないのかと思うのです。

 ハンガリーで、アルミナ工場の廃液を溜めておいたダムが決壊し、有害な重金属を含んだ汚泥が村を襲ったというニュースが報道されています。ヨーロッパでは史上最大級の環境汚染事故だともいわれていますが、有害な物質を化学処理もせずに一カ所に集めて貯蔵しておけば、それだけ環境を汚染するリスクは高まっていくのは当たり前だと思いませんか? たとえダムが決壊しなくても、廃液が地価に染みこんでいけば地下水を汚染するわけですから被害は広まり、思いも寄らないところに影響を及ぼすこともあるでしょう。
 そういう意味でこの事故は人災なのですが、人災というのはやりようによっては未然に防ぐことができます。むしろ対策を怠っていたことで起こる災害のことを人災と呼ぶ、そのような意味が込められている言葉だと思います。

 外来生物が在来種を絶滅の危機に追いやっているというのは、自然の中で絶えず行われている生存競争に過ぎません。そういつも外来生物が勝つわけでもなく、生存競争に敗れることだってあるのです。
 それではなぜ在来種を保護しようとするのかといえば、在来種が減ることによって被害を受ける人たちがいるからです。特に漁をして生活している人が受ける被害は深刻なものがあるでしょうから、対策を講じなければならないというのは充分理解できることです。

 しかし、私たちが生物多様性を維持しましょうといわれて、思わず頷いてしまうのにはもう一つ理由があると思います。
 
 それは、失われつつある昔の姿を取り戻したいという感傷です。今の生活にはストレスが多く未来にも希望がもてないというときに、人間の意識は過去に向かい、昔はよかったと懐かしむことになります。その場合、昔の苦労や不便は忘れて、いいところだけを思い出すというのが人間心理であることを忘れてはなりません。
 高度成長が始まる前の日本には豊かな「自然」があったかもしれませんが、その代わり水洗トイレもなければスーパーマーケットもコンビニもありませんでした。田舎では街灯も満足にない時代でしたから、夜道を歩くときは提灯か懐中電灯を持たなければなりませんでした。もちろん自家用車を持っている人はほんの一握りでしたから、大部分の人がてくてく歩くか自転車に乗って移動していました。
 夏は暑くハエや蚊に悩まされましたし、逆に冬は寒く、こどもの多くは霜焼けをつくっていました。(私の両手には今もうっすらと霜焼けの痕が残っています。)
 町家では内風呂のない家が多く、風呂屋へ行かなければなりませんでしたが、みんな貧乏でしたから毎日風呂には入っていたわけではありません。そのため、どちらかというと不潔でこどもの多くは鼻水を垂らしていました。
 現代ではかつてのような「自然」は失われてしまいましたが、その代わり便利で快適な生活を私たちは手に入れています。私たちは昔を懐かしむときは、今のこの快適な生活ぶりを捨てても構わないと思っているわけではないことに注意しましょう。むしろ、自分の家の中は現代の快適な生活のままでいて、週末に車や電車で行ったところにこのような豊かな「自然」が残っていればいいという甚だ身勝手な願望を持っているのではないでしょうか?

 人間はひ弱な生き物ですから、大自然の中で生きていくことはできません。そこで、自然を改造してつくりあげた「人工の自然」の内側で私たちは仕事をし、生活をしているのです。「人工の自然」ですから、人間が絶えず手を入れて管理していかなければ、たちまち荒廃してしまうことを昔の人はよく知っていました。それは現在でも田舎の年寄りたちに受け継がれていますが、都市に住む人たちの中には、私たちが「自然」と呼んでいるものは人間が管理して手を入れていかないと荒廃してしまうということを知らない人も増えています。
 その極端な例が、何事も利益とコストに分けて考えて、利益を極大化させるためにはコストを徹底的に削減するのが賢くて有能であり、コストをまともに支払い続けるのはバカで無能という考え方をする人たちです。または、私は対価を支払っているのだからそれに見合うだけのサービスを受ける権利があるし、それが不十分だと思えば相手に要求するのが当然だと考えている人たちです。(前者がビジネスエリート、後者がクレーマーと呼ばれる人たちのことを指しているのはおわかりいただけると思います。)
 「人工の自然」を管理するのは誰かというと、その利益を享受しているすべての人たちになります。共同の施設であれば、水利組合や農家組合のような関係者を代表する組織がその管理を担っています。また、田んぼの水路のように個人に管理が委ねられているものであれば、人に迷惑をかけるわけにはいかないと黙々と草取りやゴミ拾いをするというのは、今でも行われていることです。

 生物多様性が問題となっている環境というのは、人間社会に隣接するところですから、本来は人間がきちんと管理しなければなりません。(琵琶湖では三十年以上も前に、湖水の富栄養化を防がなければならないということで無リン洗剤を用いるという運動が始まりました。これなども人間が自然をきちんと管理しようという意識のあらわれであるといえます。)
 ただし、現在の石油文明の発達は私たちの思いも寄らぬ現象を引き起こすことがあります。原油を積んだタンカーが座礁して原油が海に流れ出すという事故はその一例ですし、海外旅行から帰ってきた人が意図せずに微生物や小動物を日本に持ち込んでしまったということも起こっています。したがって、当面はその対応に追われることもあると思います。その際に、自分も人間がつくった「人工の自然」の恩恵を受けているのだという自覚があるのとないのとでは行動がまるで違ったものになるといえます。
 黙っていても人口が増え経済が成長していく社会ではそのようなことを意識しなくても特段問題となることもなかったかもしれませんが、今後人口が減ってダウンサイジングが余儀なくされる社会ではそうもいきません。自分だけが知らん顔をしているというのは通用しなくなっていくのです。

 NHKのニュース特集はそのことを考えさせてくれたと評価しているのですが、その反面、だったら税金を集めて生物多様性を維持することに使ったらいいじゃないか、という議論に結びつくのではないかということも懸念されるのです。税金を集めて解決しようという発想は、一般市民の無関心を招き、同時にそれを利権にしようとする人たちをつくり出すのではないかと思うからです。
 市民が無関心であり続ける限り、環境破壊の進行という問題は常にどこかで発生することになり、それを食い止めるために税金が投入されるけれども、実際にはその大半がそれを食い物にする人たちの懐に入ってしまうという事態が続くことになります。経済が無限に成長を続けるのであればそのような負担も苦にはならないでしょうが、経済が停滞してるというのが現実なのですから、そのようなことを続けているといずれ行き詰まってしまいます。

 ではどうすればいいのかというと、とありあえず、年に1回家の前のどぶ掃除をして、目についたら草むしりもしましょう、道を歩いていてゴミを見つけたらとりあえず拾いましょう、ということに取り組むことから始めたらどうかと思います。それを続けているうちに、ものの見え方が変わってくるので、自分は何をしたらいいかが自ずとわかるようになるはずです。


追記
 これは本稿の趣旨とは関係ないことですが、危険な物質を一カ所に大量に保管しておくことの危険性に関していえば、核兵器ほど危険なものはありません。ハンガリーで起きた廃液ダムの決壊はそもそも重金属を含んだ廃液を溜めてお野ざらしにしておいたことに問題があるのですが、さすがに核兵器の場合は野ざらしにしておくというのはありません。その代わり、その保管(メンテナンス)には莫大な費用と手間がかかり、怠ることは許されません。たいした国力もないのに核兵器を持つことを至上命題としている国がありますが、さらに国力を消耗させることになるのですから、いずれ管理不能という事態に陥る危険性も否定できないといえます。もしも、近隣にそのような国があるのであれば、他の国々と連携して注意深く監視しておく必要性があるといえます。
 国の運営、社会の運営というのは利益とコストだけ考えていればできるというものではありません。
by T_am | 2010-10-10 21:18 | その他