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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

教育に対する思い込み(2)

 今回はデジタル教科書について考えてみます。先に結論をいってしまうと、教科書というのは教育の道具ですから、こうでなければならないというものではありません。適不適はあるでしょう。また、どのような道具でも長所もあれば短所もあるのことを忘れてはなりません。

 前回取り上げたデジタル教科書教材協議会の設立シンポジウムでの孫正義社長のスピーチの前半は教育改革の必要性を説いたものでした。そして後半ではその手段として教科書のデジタル化を説いています。実をいうと、教育改革がなぜ教科書のデジタル化に結びつくのか私には理解できないのですが、とりあえず孫社長の主張を検討してみることにします。

 孫社長によれば、小学校⒈年生から中学校3年生までの間に使う紙の教科書の重さの合計は22kgになるそうです。これに対してデジタル教科書の重さは0.7kgですから、ずっと軽いということになります。
 また、紙の教科書はエコに反するとも指摘しています。原料としてそれだけ多くの木材を必要とするわけですから、そのために森林を伐採しなければならない。このことはエコという流れに逆行しているというのです。
 30年後の企業人に求められるものの中に「プレゼン能力」があると孫社長は指摘しています。紙の教科書とデジタル教科書とをこのように比較することも「プレゼン能力」の実例なのでしょう。それにしては、ずいぶんと底の浅い比較をすることが「プレゼン能力」なのだなと申し上げないわけにはいきません。
 小学校⒈年生から中学3年生までの9年間に使う教科書の重さは合計で22kgだそうです。これを単純に9で割れば1年間に使う教科書の重さが出てきます。22kg÷9年=2.4kgつまり1年間に使う教科書の重さは2.4kgとなるわけです。結構重いですね。でも、全部の教科書を毎日学校に持っていくわけではありません。その日の授業に使う教科書だけを持っていけばいいのですから、せいぜい半分というところでしょうか。そうすると2.4kg÷2=1.2kgとなります。それでもデジタル教科書の0.7kgよりは重いことがわかります。しかし小学生と中学生とでは教科書の厚さが違いますから、このような平均値で比較するのはあまり意味がありません。紙の教科書を持ち運ぶとなると、おそらく中学生ではデジタル教科書よりはずっと重くなり、小学生ではそれほど差がないということになるのではないかと思います。
 孫社長は触れていませんが、iPadのバッテリーの時速時間はおよそ10時間といわれています。これは前の晩にきちんと充電した場合の数値です。生徒の中には充電するのを忘れるこどももいるでしょうから、教室には電源が用意されていなければなりません。(バッテリーが切れればデジタル教科書はただのゴミになってしまいます。)そこで、生徒は万一のために専用のACアダプターを毎日持ち歩くことになります。当然その分重くなるわけですから、0.7kgという数値は過小評価したものではないかという疑いが生まれます。

 次に紙の教科書はエコではないという指摘ですが、それをいうならiPadをつくるのに工場でどれだけのCO2を排出するのかを示して比較しなければフェアではありません。iPadには多くの部品が使われており、それらは金属・ガラス・半導体・高分子化合物などを組み合わせてつくられています。それらの工程のすべてでCO2が排出されているのであって、紙の教科書だけがCO2排出をしているわけではないのです。さらに、デジタル教科書を使うには電気が必要ですが、そのための電気を発電するのもCO2の排出を伴います。でも孫社長はそのことには触れていません。
 このように、「プレゼン能力」というのは、自分に都合の悪いことは触れないで、都合のいいことを過大に表現する能力のことであると、孫社長自ら示してくれているのですから、貴重な事例であるといえるでしょう。もっとも、単なる無知でいっている場合もありますから、一概に決めつけることもできないのですが、いずれにせよ孫社長にとってはあまり名誉なことではないように思います。
 
 デジタル教科書の利点の例として,紙の教科書では英語の発音記号が書かれてあってもどう発音したらいいかわからない、という指摘もされていました。デジタル教科書であれば音声データを埋め込むことができるので発音がばっちりわかるというのです。これはまさにご指摘の通りであると思います。たしかにそういう点ではデジタル教科書というのは便利です。
 でも申し訳ないのですが、それがどうかしましたか? とも思ってしまうのです。教科書に書かれてある英文をネイティブが読み上げるというのは、カセットテープを副教材に使うことで昔の授業でも行われていました。それで日本の学生のヒアリング能力が向上したという報告はされていませんし、発音がよくなったという報告もありません。だから、デジタル教科書の中にネイティブによる読み上げデータを埋め込んでもあまり効果があるとは思えないのです。それよりも、教室で生徒がてんでばらばらに音声データを再生したら、やかましくてかなわないということになりはしないでしょうか? ヘッドセットをつければいいのかもしれませんが、それでは先生の話をきちんと聞くことががおろそかになってしまいます。

 スピーチの中で、孫社長はデジタル教科書のデモをみせてくれていました。デジタル化された模擬教科書としてこういうものが考えられるという実演です。その中に「先生に送信」というボタンがありました。それをタッチすると先生に質問をしたり課題の提出ができるというもののようです。双方向のコミュニケーションを実現するということを考えておられるようですが、そもそも一対多の双方向的なコミュニケーションが成立するというのは幻想にすぎません。
 実際にこのようなシステムが導入されると先生は寝る暇もなくなってしまいます。学校にいる間はやるべき仕事が決まっており、生徒から送られてくる質問やレポートを読んだりする時間はありません。そうすると残業してこれらを片付けるか、自宅に持ち帰って処理する以外にないことになります。
 仮に、一人の先生が30人の生徒を受け持っているとして、30人の生徒が送ってくる質問やレポートに目を通して適切な回答やコメントをつけて送り返すのにどれくらい時間がかかると思いますか? 1人5分かかるとしても30人で150分。つまり2時間半かかることになります。1人10分かかるのでれあば300分。5時間かかることになります。これを毎日繰り返すのであれば先生はデジタル教科書の奴隷になってしまいます。
 そうなるのを回避する方法はただひとつ。「手を抜くこと」です。その代わり、生徒は教師を一切信用しないようになるでしょう。あの先生は自分が送った質問を無視した。レポートを出しても何の音沙汰もない。そんな状況が続けば生徒は先生に対する信頼を失ってしまうのです。
 教育改革の切り札としてデジタル教科書を導入しようと訴えておられるわけですが、そのことがかえって「手を抜く」教師を量産するかもしれず、生徒との間の信頼関係を蝕むかもしれないというのは皮肉なことです。
 賢い先生であれば、生徒に対してあらかじめ質問があれば授業中に行うようにと宣言することでしょう。こうしてデジタル教科書の利点であるはずの双方向的な一対多のコミュニケーションというのは封じられることになります。

 この問題について、もう少し考えてみましょう。孫社長のスピーチの中で現場の教師の声が紹介されていました。それによると教育リソースのムダはテストの「丸つけ」なのだそうです。つまり、単なるマルバツをつけるという作業に時間をとられているということで、そういう単純作業は機械に任せて、先生は生徒を励ますとかヒントを与えるとか人間にしかできないことをやるべきだという意見です。
 生徒の答案に対しマルかバツかという判断は、マークシートのように三択問題にするか、枠の中に回答を入力するという問題の出し方をすればコンピュータでも充分可能になります。そうやって先生の作業に要する時間を減らしてあげるのはとてもよいことのように思えます。
 でも、テストがそういう問題ばかりになると、先生は正解か正解でないかということしかみないようになるのではないか? という心配も生まれるのです。
 テストの問題の出し方は既に上げたように「埋めさせる」「選ばせる」ということのほかに、「自分の考えを書かせる」というものがあります。数学のテストが代表的だと思いますが、このような問題の出し方は、採点に手間がかかるけれども生徒がどのように考えているか(あるいは生徒がどこで間違ったか)がよくわかるという利点があります。そのうえで正解を出した生徒はほめてあげればいいのですし、間違えた生徒にはそれを指摘してやることができるようになります。
 ところが、このような問題を採点することは機械には(たぶん)できません。人間が手作業でやる以外にないのです。
 教師が、これは自分の仕事であると自覚してくれるのであればいいのですが、採点は機械に任せればいいのだと考えて、テストの問題を択一式か穴埋め式の問題ばかりにしてしまうと、生徒がどのように考えたかということは見えなくなってしまい、正解か正解でないかというところに関心の対象が移ってしまいます。私が生徒であれば、正解か正解でないかにしか関心のない教師に励まされても嬉しいとは思わないことは確かです。
 先生と生徒がその気になれば、両者の間でコミュニケーションが成立するのは可能です。ただし、教師はそのためにある程度まとまった時間を割かなければいけませんし、観察力を磨く努力を怠ることもできません。それらについてはIT機器が支援してくれるわけではないのです。 

 孫社長はとにかく実験をスタートされることだと力説しています、これについては私もその通りであると思います。デジタル教科書は使い方を誤れば、私が個々で申し上げたような陥穽に陥るということも考えられます。それらの懸念を実験によってつぶすということは無駄ではないと考えられるからです。
 ただし、教科書をデジタル化すべきだという主張に同意するものではありません。教育の道具として用いることは可能でしょうが、何を盛り込んだらいいのかわからないことがあまりにも多すぎるからです。
 また、デジタル教科書という1個のハードウェアが小学校から中学校までの9年間の使用に耐えるとはとても思えません。生徒の多くはその途中で壊してしまうかなくしてしまうはずです。これが教科書であれば、たとえ破れても読めなくなるのはそのページだけであり、まったく使い物にならなくなるというわけではありません。ところがデジタル教科書の場合、壊れてしまえばその瞬間にIT機器はゴミになってしまいます。その場合買い替えるのは親の責任になるのでしょうから、結構な負担になると思います。

 また孫社長は、全国の先生がつくった教材がクラウド化され、自由に利用できる状況をつくりあげれば、その利用状況をランキングとして公表することによってすぐれた教材だけが残っていくということを指摘していました。これは教科書というよりは副教材を念頭に置いたものと考えることができます(教科書を丸々一冊アプリケーションにするだけの余裕と技術を持った先生がいるとは思えません)が、たしかにごく限られた範囲の教材ということであれば、そういうことは充分にありうることだと思います。そういう有志の先生がつくった教材に自由にアクセスできる環境というのは魅力的です。でもデジタル教科書でなくてもそれは可能です。インターネットと紙があれば、現在のリソースでも充分実現可能であってデジタル教科書でなければできないというのには無理があると思います。

 
 前回と今回と、デジタル教科書の導入について孫社長のスピーチを題材にして考えてきたわけですが、改めたわかったことは財界が教育に口出しをするとロクなことにならないということです。
 明治以降日本が欧米列強の仲間入りを果たすことができたのは教育に力を入れたおかげであるのは間違いありませんが、当時と今とでは教育に対する考え方が異なっているのではないかと思います。
 当時の教育とは、まずリテラシー(読み書き計算)を身につけさせることという江戸時代からの伝統(寺子屋教育)をいったん否定した上で、読み書き計算能力のほかに基本的な知識を身につけさせるということが行われました。それ以上研究を続けたければあとは自分で努力しなさい。その代わり国家もそれを応援しますよ。という風潮がつくりあげられたように思います。
 では現代はどうかというと、読み書き計算に加えた基本的な知識を学ばせるというのは変わっていません(ここまではほぼ小学校で教わる内容になります。もっともここに英語教育が入ってきたのはどうかと思います)が、その上に構築されるはずの専門的な知識・考え方までもすべての生徒に身につけさせるべきであるという考え方があり、この部分が異なると思うのです。中学校が義務教育になったのはそのため(さらに児童を労働から解放するという目的もあります)ですが、現実には高校も事実上義務教育になっているわけですから、このことはさらに加速しているといえるでしょう。
 すなわち、明治時代とは比べものにならないような「高い目標」が生徒に対して示され、みんながそれに到達しなければならない。それが教育であるといっているのです。先生はそのために存在するのであり、また、そのことが効率よく達成できない学校は市場原理によって淘汰されるべきであるというのが現在の風潮です。
 戦後しばらくの間は、大学進学率がそれほど高くなかったということもあって、その高い目標に向かって競争するのだという風潮がありました。その後しだいに大学進学率が高くなってくると、子供たちを競争に巻き込むのはかわいそうだという声が大きくなり、その結果「ゆとり教育」が行われ、時期を同じくするようにして大学の全入時代が実現したのです。
 その後大学生の学力が低下してきているという報告があり、これではいかんとなっているのが現在の姿です。財界人や政治家、官僚たちが教育改革が必要だと主張するのは、基本的には大勢の学生を「高い目標」に到達させなければならないという立場に立っているからです。財界の場合、ここに入社後即戦力として働ける人材を供給せよという圧力(孫社長が求める知的レベルの高い学生=有能なビジネスマンというのも大差ありません)も加わっています。
 その際に、学生を「高い目標」に到達させることができる学校はいいが、そうでない学校は市場により淘汰されるようにしようという意思が働きました。これによって、優秀なものだけが残り、そうでないものは市場によって淘汰されるという考え方は、学校だけでなく、個人についても適用されるのだという風潮が生まれました。

 教育は国民に「読み書き計算」というリテラシーと基本的な知識を与え、それ以上のことを知りたいと思う学生に対しては改めて門戸を開く、という二重構造が日本の教育の特徴なのですが、これらの人々はそれではダメだとおっしゃるのです。それは、すべての学生は100mを13秒以内で走れるようになりなさいといっているようなものです。それができないのは教師が悪い、カリキュラムが悪いというふうに責任が追及されるのが今の世の中であり、それができないこどもは何の価値もないという世の中になりつつあります。 身体的な能力の追求ということであれば、それは無理だと誰もがすぐわかることでも、知的レベルの問題となるととたんにそうは思わなくなるのは不思議なことです。
 それどころか、「大学を出ていないと給料のいい仕事に就けない」とか「英語ができないといい会社に入れない」という脅迫観念が学生たちに絶えず植え付けられています。このような「価値観の押しつけ」がもたらす最大の問題は、なかなか内定をもらえない自分には何の価値もないのではないかと、学生たちが思い込んでしまうことにあります。
 だから、教育改革を行う必要があるというのであれば、「他人と同じ価値観に縛られることはないんだよ。君を必要としてくれる人はきっとどこかにいるのだから、その人に巡り会う日のために自分を磨く努力を怠らないようにしないとね。」というメッセージを学生たちに贈ることを考えるべきではないかと思います。
 しかし、これらの人たちが期待する教育改革というのは、すべての学生に同じことを期待するというものであり、その査定の結果上から順番に採用していくという身勝手さが根底にあるように思います。そういう風潮が広がれば広がるほど不幸な学生が増えるということを自覚してはいかがなものかと思います。教育について口を出すのはいい加減やめるべきでしょう。
by T_am | 2010-08-08 21:08 | その他