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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

議会の役割(2)

 前回は、公務員は法を執行する立場でありながら、法律の立案まで行っているということを申し上げました。そのうえに許認可権まで握っているのですから、これはもう最強といってよいでしょう。その代わり、弊害も大きくなります。今回は、その弊害を最小化するためにはどうしたらいいかということを考えてみます。

 すぐ思いつくのは、行政の権限を制限すること、および外部の機関によって行政を監視するという仕組みです。

 官僚や大臣には法案や予算案を提案する権限はありますが、決定権は議会にあります。これは政府の権限に制約をかけようという目的で設けられた制度です。ところが、議会は細かいところまで立ち入ってチェックしきれていないという現実があります。たとえば、前回ご紹介した法律の中に政令や省令で定めるという記述を盛り込むやり方は、法律さえ通ってしまえばその後は官僚の自由な裁量に任されるということですから、行政の権限の制約にはなっていません。
 このことは予算についてもいえます。注目を浴びている事業仕分けは、予算の付いている事業がはたしてそれに見合うだけの価値があるかどうかをチェックするためのものです。つまり、予算がついて、実際にお金を使ってみるまでその適不適が議会にはわからないということでもあります。これでは、国会で行っている予算審議とは何なのか? ということになります。

 こうしてみると、どうやら国会は行政の権限に制約を加えるという機能を果たしていないのではないか、ということになります。今、国会と書きましたが、事情は地方議会でも変わらないようです。名古屋市長や阿久根市長が議会改革を行おうとしている理由は、議員がその報酬に見合う働きをしていないというところにあると思われます。さらには、本来公務員を監視しなければならない立場にありながら、議員が悪い意味で職業化するうちに官僚と癒着してしまうということもあるようです。これは官僚との癒着ではありませんが、福岡県で県会議員が調査費を使って政治家のパーティ券や官能小説を購入していたという報道がありました。議員であることに狎れてしまったしまったのでしょう。べつに福岡に限ったことではないでしょうが、公私混同をする議員が多すぎるといえます。

 このようなことから、議員は住民によるボランティアでもできるのではないか、という考えが生まれているように思います。これは、欧米の地方自治体には住民がボランティアで議員になっている事例があると紹介されているのも大きいと思います。
 
 結論からいうと、住民がボランティアで議員を務めるというのに私は反対です。その理由は、欧米と違って日本人の中には市民として意識が成熟していないからです。
 祖父母の世代には、「お上のなさることに間違いはございますまい」という意識が明白に残っていました。これは言い方を変えれば、「偉い人の言うことに従っていれば大過なく生きていくことができる」というものであり、父母の世代になると、「面倒なことは誰か他の人にやってもらい、自分はかかわりたくない」というふうに意識が変化しました。その思いは私たちの中にもあります。
 裁判員制度に反対する声の中に、「他人を裁くことが私たちにできるのか」というものがあります。それだけの見識を私たちは備えているのか、と問われればなるほど説得力のある意見だと思います。しかし、私たちの社会を維持していくためには、罪を犯した人を嫌でも裁かなければならないときがあり、それを委任している専門家(裁判官)の判断に疑問があるならば、自分たちでやるしかないじゃないか、そう思います。それには、自分が下した判断には自分が責任を負うという自覚が必要です。責任は負いたくないというのであれば、他人に任せる以外にありません。その代わり、他人に任せた結果どうなったかについては、唯々諾々として受け入れる以外にありません。仮に、その結果を受け入れるのが嫌だというのであれば、それは他人に任せたことが間違いの始まりだったということになるのです。
 要はそのように考えることができるかどうかということです。「政治が悪い、国会議員が悪い」といいながら「自分は何もしたくない。誰か他の人がやるだろう。」というところに市民意識は育ちません。けれども、そのような考え方をする人が多いのです。
 それでも最近は、「このままではいけない。自分にできることは何かないだろうか。」と考える人が増えてきていることも事実です。それを思うとまんざら捨てたものではないと思います。ただし、この人たちに欠けているものがあるとすれば、それは自分で判断するという習慣です。「何かしたい。何をしたらいいか教えてほしい。」という意識を持っていると、「これだ!」と示されたものに対して飛びついてしまうことになり、せっかくの善意が利用されてしまい、何の益もないことに労力を注ぎ込んでしまうこともあるのです。
 それを回避するためには、ボランティアの対象を、「自分の行為によって喜ぶ人の顔を直に見ることができる」ものに絞り込むのが確実です。地震や水害の復旧作業のボランティアは自分の行為をありがたいと思ってくれる人の顔を直に目にすることができます。ところが、そうではないもの、たとえば「捕鯨反対」や「イルカ猟反対」という活動は、自分の行動をありがたいと思ってくれる人の顔を見ることができません。そのような活動は、見方を変えればまったく意味がない(日本人の多くは捕鯨禁止やイルカ猟禁止には否定的な考えを持っています)ということになるのです。したがって、そういう類の活動にはちょっと距離を置いた方がよいと思います。

 話が逸れてしまいました。すいません。

 日本では地方議会の議員活動をボランティアに求めることは困難であるという話でした。このことに対する興味深い取り組みを河村市長の発案により、名古屋市が行っています。
 「地域委員会制度」と呼ばれるこの仕組みは、「だれか」ではなく、「みんな」で地域のことを考える、というキャッチフレーズに基づいて、住民投票により選ばれた委員(無報酬)を中心に地域の問題を話し合い、予算案を市に対して提案することができるというものです。議会での承認が必要ですが、地域から出てきたものを議会が否決するというのはちょっと難しい(反対した議員は次の選挙の心配をしなければならない)と思いますから、これは事実上市と議会の権限(提案権と決定権)の一部を奪い取る仕組みであるといえます。
 こういう構想が登場するくらいですから、地方議会の議員と公務員はいったいどちらを向いて仕事をしているのか、ということがいえます。
たとえば、ご自分がお住まいの地域の議員の顔と名前をご存知ですか? ほとんどの人は知らないはずです。なぜなら誰もが自分には関係ないと思っているからです。そのことは住民自身の問題でもありますが、同時に議員の問題でもあります。住民に感心を持ってもらえないような仕事しかしていないということになるからです。
 名古屋市の地域委員会制度は市政の全般について議論するというわけではなく、あくまでも地域の問題を話し合う場ですから、その効果が及ぶ範囲は限られているといえます。しかし、委員経験者の中から市会議員になる人が現れれば、議員の考え方も少しずつ変わっていくのかもしれません。

 住民のボランティアによる議員活動が可能になるためには、自治体の規模が小さいことが不可欠です。人口数百人からせいぜい数千人というところまでが限界ではないかと思います。というのは、規模の小さな村や町であれば、主だった人の顔を名前はだいたい知っているということになり、情報の共有がやりやすくなるからです。
 また、議員活動に不可欠な調査という作業についても、自治体の規模が小さければ、それほど手間がかかりません。逆に、大きな自治体になると面積も広くなるので移動距離も大きくなります。調査にかかる時間と手間暇、コストが段違いに増えてしまうので、ボランティア議員には荷が重くなるはずです。

 また、改革を行うときに、自治体のサイズが小さい方がものごとを進めやすいといえます。福島県の矢祭町(人口およそ6,300人)は平成の大合併に逆らって合併しない宣言を行ったことで注目されました。その後、役場・議会・住民が一体となって改革を進めてきました。
 矢祭町議会の決意宣言「町民とともに立たん」には、議員報酬を日当制という実費支給にすることによって、「これから議員になろうとする人も、欲の塊のような金の亡者は消え、真摯に町を思う若い人や女性も進出しやすくなるなど、有権者の選択肢が拡大するに違いない。『選挙には金がかかる』との風説があるが、この日当制の導入によって、『金のかからない選挙』が実現できるだろう。」と書かれています。


 改革を進めるには、議員になっても金儲けができないようにするのが最も効果が高いというわけです。同じことは県議会や国会にもいえることですし、議員を公務員という言葉に置き換えれば、行政改革の出発点になります。

 名古屋市で河村市長が議員報酬を半減させる条例案を提出したときに、市会議員の反論は「それでは議員のなり手がいなくなる」というものでした。報酬が半減されるといっても、それでも年収800万円なのですから結構な金額ではないかと思うのですが、名古屋市の市会議員の感覚は異なるようです。おそらく心の中では「一生懸命議員としての仕事をして正当な報酬をもらうことのどこが悪いのだ」と思っているのでしょう。
 私にいわせれば、そう思うこと自体が既に実業家の発想だということになります。実業家は自分がかけたお金(投資)に見合ったリターンを期待します。しかし、仕事の成果と報酬とを比べてみれば、かならず成果>報酬となることがわかります。成果<報酬となることはあり得ないことは容易におわかりいただけることと思います。同様に、仕事の成果=報酬ということもありえません。その人に仕事をしてもらって100の成果があがったとします。その成果のすべてを報酬として支払わなければならないのであれば、次からは誰もその人に仕事の依頼をしなくなるからです。
 つまり、その人の仕事の成果に対して報酬は常に過少となるのです。これは経営者であっても同じことで、会社の純利益に相当する金額を役員報酬で配ってしまえば、その会社の成長はなくなってしまいます。(もっともアメリカではそれに近いことを平気で行う経営者が増えており、日本でもそれをまねる企業も出てきているようですが。)

 正当な報酬がほしいと思う人は投資家になるしかありません。ところが、議員になれば金儲けができると思うから競争率が高くなるわけです。その結果として「選挙に金がかかる」ようになるのは当たり前であり、そうやって当選すれば、使った金を回収することを考えるというのも至極当然のことです。
 そうなれば、議員報酬を引き上げようということになりますから、議員になりたがる人はさらに増えることになります。従来行われてきた対策は議員定数を増やすことでしたが、議員数と議会の能力が正比例しないことは既に実証されています。したがって議員定数を増やすことは穀潰しをさらに増やすこだけであり、何のメリットもありません。
 また、小選挙区制を導入すれば、選挙にかかる費用も抑えることができるといわれていましたが、死に票が増えてしまうという欠点も明らかになっています。
 それならば、金儲けをしたい人にとって、議員になっても割が合わない、むしろ経営者になった方がはるかにましだと思うように持っていくのが順当でしょう。そうなれば、議員になりたいと思うのは、自分が住む町のことを真剣に考えている人、もしくは志を持った人に限られてきますから、ものごとは今よりはよい方向に向くようになります。
 その代わり、規模の大きな自治体の議員になると死ぬほど忙しい思いをするはずです。オーバーワークは本人にとっても有害ですし、議員に期待される職責を果たしてもらえないことのデメリットも大きくなります。
 そうなると、時代に逆行するようですが、自治体を分割してコンパクトなものにしていく方が住民にもたらすメリットは大きいといえます。
by T_am | 2010-07-09 22:29 | その他