首長と議会の対立
改革を訴えて当選した首長と議会が対立するという構図は以前からありました。記憶にある限りでは、田中康夫元長野県知事がそうでしたし、大阪府の橋下知事や宮崎県の東国原知事もそうだったような気がします。市政に目を向けると、最近では名古屋市の河村市長や阿久根市の竹原市長が奮闘しているようです。
なぜ議会が首長と対立するのかというと、議員の中には特定の団体の支持を得て当選している人も多いからです。国政の場では、議員と官僚・産業界の癒着が問題視されてきましたが、地方議会でも同じことが起きているのでしょう。
首長がそのことにメスを入れようとすると、議会が反発し対立が起こるわけです。首長は改革を行うために、議会に対し、様々な条例案や改正案を提出します。しかし、議会の方では既得権が侵されることから、首長の提案を悉く葬り去ろうとします。
有権者に圧倒的な人気のある首長ならば議会もおとなしくなる(次の選挙で自分が当選できなくなる恐れがある)ので、さほど問題はないようですが、それでも議会と正面衝突するのを避けようと梶を切り直す首長も多いように思います。
現時点で、首長と議会が対立している自治体として、名古屋市と阿久根市があります。名古屋市の場合、マスコミはまだ河村市長に対し好意的ですが、阿久根市の竹原市長の場合は完全にマスコミが敵に回っています。竹原市長自身にも問題があるとはいえ、お互いの不信感はエスカレートする一方です。このため、マスコミ報道だけをみていると、竹原市長は阿久根市の独裁者であるという負のイメージを持ってしまうのです。
首長も議員も選挙によって選ばれたわけですから、理屈の上ではどちらも民意を背負っているということになります。ところが、投票率100%、得票率100%で当選する候補者はいないわけですから、どんな候補者であっても、賛成する人もいれば反対している人もいるわけです。それを十把一絡げに「民意」といってしまうのでおかしなことになるのです。
投票率60%で二人の一騎打ちという場合、理論上は有権者の30%を上回る票を得れば当選することができます。投票率が80%の場合でも有権者の40%を上回れば当選可能です。
対抗馬との得票差がたとえ1票差でも当選は当選。そう思っているのかもしれませんが、政治家は一度、選挙区の有権者の何パーセントが自分に投票してくれたのかを謙虚に確認してみたらいいと思います。そうすれば「民意」という言葉を軽々に使うことができないとわかるはずです。
平成21年5月31日に投票された阿久根市長選挙を例に挙げてみましょう。
当日の有権者数 19,876人
投票者数 16,415人
投票率 82.59%
当選者の得票数 8,449票
得票率 42.51%(有権者数対比)
対立候補の得票 7,887票
得票率 39.68%(有権者数対比)
二人の候補者の得票数を合計すると16,336票になりますから、無効票は極めて少ないといえます。それでも当選者の得票率(有権者数対比)は42.51%であり、過半数に達していないのです。
次に、平成21年3月22日に行われた阿久根市議会議員選挙の結果をみてみましょう。
当日の有権者数 20,036人
投票者数 15,693人
投票率 78.32%
トップ当選者の得票数 1,227票
〃 得票率 6.12%(有権者数対比)
最下位当選者の得票数 544票
〃 得票率 2,72%(有権者数対比)
当選者全員の得票数 13,058票
〃 得票率 65.17%

これをみると、トップ当選者であっても有権者の6.12%の支持しか集めていないことがわかります。ちなみに、有権者の過半数にあたる得票数が50%以上になるには、実に16人中12人の議員が必要です。つまり、この議会では議員の上位12人以上が賛成するか反対しない限り、有権者の過半数を代表しているとはいえないのです。
阿久根市のように、投票率が非常に高い選挙でもこのような結果にしかなりません。他の市町村ではもっと投票率が低いのですから、当選者の有権者全体に対する得票率はもっと低いものになると思われます。
それはともかくとして、阿久根市についてわかるのは、市長に賛成する勢力と賛成しない勢力はほぼ拮抗しているということです。このような状態で、議会が市長の提案を片っ端から否決したり、あるいは市長が専決処分を繰り返すというのは対抗する勢力の不満を大きくするだけのことです。市政が紛糾するのも無理はありません。
ではどうしたらいいのか?
一人でも多くの住民を味方につけるためには、インフォーマルな活動をいくら繰り返しても効果はありません。それよりも情報を徹底的に公開することです。竹原市長が言うように、「議員は何も知らないので条例をつくる能力もない。市の職員がつくった条例案を可決する以外に能はない。」というのが正しいのならば、議会の傍聴者を増やすことです。それも平日の昼間に議会を開くのではなく、平日の夜に開催するとか、あるいは週末に開くとかして勤めを持っている市民でも傍聴しやすい状況をつくるべきです。
地方議会の議員は本来はボランティアで行うべきだという主張には、私も同意するところがあり、それならばボランティアとして参加しやすい時間帯に議会を開催すべきだと思うのです。
そうやって多くの市民に議会を傍聴してもらい、どちらの言い分に理があるかを市民自ら判断してもらうというのが、民主主義の理念に叶うのではありませんか?
議会は市長の提案を悉く否決する。市長は専決処分を繰り返し、議会を招集しない。これは民主主義における意思決定のあり方としては異常です。正しいことをしているからいいのだとか自分の信念に基づいて行っているからいいのだ、というものではありません。誰だって自分の方が正しいと思っているのですから、お互いに譲ろうしないにもかかわらず、議論する機会が封じられていれば(封じているのは市長だけではありません)、あとはどうやって白黒つけるかというと、合法であることを装って暴力的かつ理不尽に振る舞う以外にないようになります。そういう社会で暮らしたいと、あなた思いますか?
理不尽といえばマスコミの報道も理不尽です。市長の専決処分により半減されたボーナスが職員に支給されたときのニュースには、次のように書かれていました。
住宅ローンなどの金融機関の引き落としに不足が生じるケースもあり、職員の一人は「ショックというより金策をどうしようかと思った」と落胆。親族からの借金で事前に穴埋めしたという。(2010年6月30日 西日本新聞夕刊より)
バブル崩壊以降、ボーナスが半減された会社やサラリーマンは日本中にいくらでもいます(中にはボーナスがないという会社もありました)。マスコミは、そういう企業を実名をあげて報道したことがあったでしょうか。個人の声を紹介したとしても企業名は伏せていたではありませんか。
そういう、ある種の意図に基づいた報道を繰り返すからマスコミは信用されなくなるのであり、中には竹原市長のようにマスコミを排除するという人も出てくるのです。にもかかわらず、取材の自由を侵害されたとして、市長を目の敵にする報道はいかがなものかと思います。
取材するならば表層的なところをみるのではなく、もう少し掘り下げてみてはどうかと思います。昨年の市長選挙の後で南日本新聞はこう書いています。
竹原市政への是非が最大の争点だった3月の出直し市議選。「市長支持派」5人が上位を独占したものの、「反市長派」11人が当選。得票数計でも、反市長派が市長支持派を上回り、反市長派議員は「民意はこちらにある」と胸を張った。
しかし、今回の出直し市長選でその民意は竹原氏を選んだ。わずか2カ月後の選挙で生じた民意の“ねじれ”。
しかし、先ほどの表をご覧いただくとわかりますが、反市長派11人の議員の総得票率は有権者対比で38.7%しかありません。一方市長選挙での竹原市長の得票率は42.51%ですから、“ねじれ”などどこにもないことがわかります。
こんなことを書いていてもきりがないので、そろそろまとめますが、阿久根市に関してはどちらが民意を代表しているということはいえません。両方の勢力が拮抗している以上、打開策はないといえます。竹原市長をリコールしようという動きがあるようですが、反市長派とマスコミによるネガティブ・キャンペーンが功を奏して、リコールが成立したとしても、今までの市政に不満を持っている人たちは4割くらいいるわけであり、その人たちの不満が解消されるわけではありません。
ネガティブ・キャンペーンを行っているのは竹原市長も同じであり、公務員の給料がいかに高いかということをしきりに強調しています。事実として、そのような状況にあることは誰にも否定できませんが、だからけしからんと部外者が憤慨するのは合理的な根拠がありません。給料は労働の対価として支払われるのですから、それが不当に高いかどうかは人事評価を通してみなければ、つまり個人単位でみなければ誰にも判断がつかないのです。
市長がそれはおかしいというのであれば、給与体系と人事評価制度を専決処分して、職員の評価をやり直して給料を妥当な金額に変更すればいいだけのことです。ろくに仕事もしない人間が職場で大きな顔をしているというのは、人事評評価が適性に行われていないからです(でも案外難しいのです。これが・・・)。
仕事をしない人間は評価も低いということになれば、周囲の人からも軽んじられるようになり、当人は居づらくなっていずれ辞めていきます。評価がきちんと行われないと、やってもやらなくても一緒ということになり、職場の士気は低くなります。こうして仕事をしないけれども給料は高いという人が増えていくことになります。このことは公務員だけに見られる現象ではありません。民間企業でもこういう現象はいくらでも起こっています。
阿久根市の不幸は、市長も反市長派も努力の方向がずれているというところにあると言うのが今回の結論です。
なぜ議会が首長と対立するのかというと、議員の中には特定の団体の支持を得て当選している人も多いからです。国政の場では、議員と官僚・産業界の癒着が問題視されてきましたが、地方議会でも同じことが起きているのでしょう。
首長がそのことにメスを入れようとすると、議会が反発し対立が起こるわけです。首長は改革を行うために、議会に対し、様々な条例案や改正案を提出します。しかし、議会の方では既得権が侵されることから、首長の提案を悉く葬り去ろうとします。
有権者に圧倒的な人気のある首長ならば議会もおとなしくなる(次の選挙で自分が当選できなくなる恐れがある)ので、さほど問題はないようですが、それでも議会と正面衝突するのを避けようと梶を切り直す首長も多いように思います。
現時点で、首長と議会が対立している自治体として、名古屋市と阿久根市があります。名古屋市の場合、マスコミはまだ河村市長に対し好意的ですが、阿久根市の竹原市長の場合は完全にマスコミが敵に回っています。竹原市長自身にも問題があるとはいえ、お互いの不信感はエスカレートする一方です。このため、マスコミ報道だけをみていると、竹原市長は阿久根市の独裁者であるという負のイメージを持ってしまうのです。
首長も議員も選挙によって選ばれたわけですから、理屈の上ではどちらも民意を背負っているということになります。ところが、投票率100%、得票率100%で当選する候補者はいないわけですから、どんな候補者であっても、賛成する人もいれば反対している人もいるわけです。それを十把一絡げに「民意」といってしまうのでおかしなことになるのです。
投票率60%で二人の一騎打ちという場合、理論上は有権者の30%を上回る票を得れば当選することができます。投票率が80%の場合でも有権者の40%を上回れば当選可能です。
対抗馬との得票差がたとえ1票差でも当選は当選。そう思っているのかもしれませんが、政治家は一度、選挙区の有権者の何パーセントが自分に投票してくれたのかを謙虚に確認してみたらいいと思います。そうすれば「民意」という言葉を軽々に使うことができないとわかるはずです。
平成21年5月31日に投票された阿久根市長選挙を例に挙げてみましょう。
当日の有権者数 19,876人
投票者数 16,415人
投票率 82.59%
当選者の得票数 8,449票
得票率 42.51%(有権者数対比)
対立候補の得票 7,887票
得票率 39.68%(有権者数対比)
二人の候補者の得票数を合計すると16,336票になりますから、無効票は極めて少ないといえます。それでも当選者の得票率(有権者数対比)は42.51%であり、過半数に達していないのです。
次に、平成21年3月22日に行われた阿久根市議会議員選挙の結果をみてみましょう。
当日の有権者数 20,036人
投票者数 15,693人
投票率 78.32%
トップ当選者の得票数 1,227票
〃 得票率 6.12%(有権者数対比)
最下位当選者の得票数 544票
〃 得票率 2,72%(有権者数対比)
当選者全員の得票数 13,058票
〃 得票率 65.17%

これをみると、トップ当選者であっても有権者の6.12%の支持しか集めていないことがわかります。ちなみに、有権者の過半数にあたる得票数が50%以上になるには、実に16人中12人の議員が必要です。つまり、この議会では議員の上位12人以上が賛成するか反対しない限り、有権者の過半数を代表しているとはいえないのです。
阿久根市のように、投票率が非常に高い選挙でもこのような結果にしかなりません。他の市町村ではもっと投票率が低いのですから、当選者の有権者全体に対する得票率はもっと低いものになると思われます。
それはともかくとして、阿久根市についてわかるのは、市長に賛成する勢力と賛成しない勢力はほぼ拮抗しているということです。このような状態で、議会が市長の提案を片っ端から否決したり、あるいは市長が専決処分を繰り返すというのは対抗する勢力の不満を大きくするだけのことです。市政が紛糾するのも無理はありません。
ではどうしたらいいのか?
一人でも多くの住民を味方につけるためには、インフォーマルな活動をいくら繰り返しても効果はありません。それよりも情報を徹底的に公開することです。竹原市長が言うように、「議員は何も知らないので条例をつくる能力もない。市の職員がつくった条例案を可決する以外に能はない。」というのが正しいのならば、議会の傍聴者を増やすことです。それも平日の昼間に議会を開くのではなく、平日の夜に開催するとか、あるいは週末に開くとかして勤めを持っている市民でも傍聴しやすい状況をつくるべきです。
地方議会の議員は本来はボランティアで行うべきだという主張には、私も同意するところがあり、それならばボランティアとして参加しやすい時間帯に議会を開催すべきだと思うのです。
そうやって多くの市民に議会を傍聴してもらい、どちらの言い分に理があるかを市民自ら判断してもらうというのが、民主主義の理念に叶うのではありませんか?
議会は市長の提案を悉く否決する。市長は専決処分を繰り返し、議会を招集しない。これは民主主義における意思決定のあり方としては異常です。正しいことをしているからいいのだとか自分の信念に基づいて行っているからいいのだ、というものではありません。誰だって自分の方が正しいと思っているのですから、お互いに譲ろうしないにもかかわらず、議論する機会が封じられていれば(封じているのは市長だけではありません)、あとはどうやって白黒つけるかというと、合法であることを装って暴力的かつ理不尽に振る舞う以外にないようになります。そういう社会で暮らしたいと、あなた思いますか?
理不尽といえばマスコミの報道も理不尽です。市長の専決処分により半減されたボーナスが職員に支給されたときのニュースには、次のように書かれていました。
住宅ローンなどの金融機関の引き落としに不足が生じるケースもあり、職員の一人は「ショックというより金策をどうしようかと思った」と落胆。親族からの借金で事前に穴埋めしたという。(2010年6月30日 西日本新聞夕刊より)
バブル崩壊以降、ボーナスが半減された会社やサラリーマンは日本中にいくらでもいます(中にはボーナスがないという会社もありました)。マスコミは、そういう企業を実名をあげて報道したことがあったでしょうか。個人の声を紹介したとしても企業名は伏せていたではありませんか。
そういう、ある種の意図に基づいた報道を繰り返すからマスコミは信用されなくなるのであり、中には竹原市長のようにマスコミを排除するという人も出てくるのです。にもかかわらず、取材の自由を侵害されたとして、市長を目の敵にする報道はいかがなものかと思います。
取材するならば表層的なところをみるのではなく、もう少し掘り下げてみてはどうかと思います。昨年の市長選挙の後で南日本新聞はこう書いています。
竹原市政への是非が最大の争点だった3月の出直し市議選。「市長支持派」5人が上位を独占したものの、「反市長派」11人が当選。得票数計でも、反市長派が市長支持派を上回り、反市長派議員は「民意はこちらにある」と胸を張った。
しかし、今回の出直し市長選でその民意は竹原氏を選んだ。わずか2カ月後の選挙で生じた民意の“ねじれ”。
しかし、先ほどの表をご覧いただくとわかりますが、反市長派11人の議員の総得票率は有権者対比で38.7%しかありません。一方市長選挙での竹原市長の得票率は42.51%ですから、“ねじれ”などどこにもないことがわかります。
こんなことを書いていてもきりがないので、そろそろまとめますが、阿久根市に関してはどちらが民意を代表しているということはいえません。両方の勢力が拮抗している以上、打開策はないといえます。竹原市長をリコールしようという動きがあるようですが、反市長派とマスコミによるネガティブ・キャンペーンが功を奏して、リコールが成立したとしても、今までの市政に不満を持っている人たちは4割くらいいるわけであり、その人たちの不満が解消されるわけではありません。
ネガティブ・キャンペーンを行っているのは竹原市長も同じであり、公務員の給料がいかに高いかということをしきりに強調しています。事実として、そのような状況にあることは誰にも否定できませんが、だからけしからんと部外者が憤慨するのは合理的な根拠がありません。給料は労働の対価として支払われるのですから、それが不当に高いかどうかは人事評価を通してみなければ、つまり個人単位でみなければ誰にも判断がつかないのです。
市長がそれはおかしいというのであれば、給与体系と人事評価制度を専決処分して、職員の評価をやり直して給料を妥当な金額に変更すればいいだけのことです。ろくに仕事もしない人間が職場で大きな顔をしているというのは、人事評評価が適性に行われていないからです(でも案外難しいのです。これが・・・)。
仕事をしない人間は評価も低いということになれば、周囲の人からも軽んじられるようになり、当人は居づらくなっていずれ辞めていきます。評価がきちんと行われないと、やってもやらなくても一緒ということになり、職場の士気は低くなります。こうして仕事をしないけれども給料は高いという人が増えていくことになります。このことは公務員だけに見られる現象ではありません。民間企業でもこういう現象はいくらでも起こっています。
阿久根市の不幸は、市長も反市長派も努力の方向がずれているというところにあると言うのが今回の結論です。

