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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

この国の進路(9)  恐怖の排除

 政治が目指すものは何なのか、考えてみました。
 豊かさ。自由。平等。平和・・・。どれも大切なことであり、おろそかにしていいというものではありません。けれども、もう少し根本的なものがあるのではないか? そんなことを考えていて、思い当たったことがひとつあります。

 それは、表題にもあるように、恐怖の排除ということです。

 自然界の中で、人間というのは本来ひ弱な生き物です。そこで、人間は群れをつくって生活するようになりました。そうすることで外敵から自分たちを守ることができるようになり、さらに食料を手に入れやすくなるからです。
 群れをつくってそこで生活するようになったことで、人間は生きていくうえで必要な食料と住居を確保することができるようになりました。
 そのような原始的な社会で、リーダーに求められる役割というのは、食料の調達と分配、そして外敵(ここでいう外敵とは、他の部族の人間であったり、あるいは猛獣であったりします)からの防衛です。すなわち、リーダーは、群れのメンバーを飢えさせないこと、外敵が襲ってきたときにこれを撃退するために存在するのです。
 有能なリーダーに率いられた群れは人口が増え、次第に規模が大きくなっていきます。
これを群れのメンバーの側からみると、あのリーダーについて行けば安心だ、ということになります。
 したがって、このような原始的な社会において、リーダーが行うべきことは、飢餓の恐怖と略奪・侵略に対する恐怖をなくすことであると考えることができるのです。

 国民から恐怖を排除してやること。そういう見方をすると、戦後日本の政治は、何とかうまくやってきたということができます。なんといっても、外国から侵略されるのではないかという心配がいらなくなりましたし、また、今日食べるものをどうやって調達しようかという心配をする必要もなくなったことが大きいのです。
 
 政治をランク付けすると、国民に対し恐怖を排除することに成功していれば上等、それができない政治は無能、そして恐怖を煽る政治は悪辣、ということになります。

 いくつか例をあげてみましょう。
 たとえば、北朝鮮ではアメリカに攻め込まれるのではないか(法的には朝鮮戦争は休戦状態にあるのであって、終結してはいません)、という恐怖を煽ることで軍備にリソースが集中的に配分され、それが国内の不満を押さえつけることによって国家体制が維持されています。したがって、北朝鮮がアメリカとの二国間協議を要求するのも理解できるのですが、それによってアメリカとの間で平和な関係が構築されると、今度は国家体制が崩壊しかねないという矛盾も抱えています。
 また、アメリカでは911 という同時多発テロ事件によって、国民の間にテロに対する恐怖が生まれました。それまで起こったいかなる戦争でもアメリカ本土に攻め込まれたことがないのですから、アメリカ国民が受けたショックは大きいものであったといわれています。それに対して連邦政府と地方政府は「テロとの戦い」を標榜して治安の強化を行ってきました。警官が大幅に増員され、軽犯罪を犯したものでも容赦なく刑務所にぶち込むということが行われています。(「ルポ 貧困大国アメリカⅡ」堤未果 岩波新書) 
 同書によてば、囚人が刑期を勤め上げて出所してきても、入所中の部屋代や食費、医療費などが請求され、それらは返済不能な額にまでふくれあがっているために、就職しように雇ってくれるところが見つからないという状況だとのことです。はて、刑務所とは更正のための施設ではないのかと疑問に思うのですが、アメリカではもはやそうではなく、蟹工船のような低賃金労働が行われている世界なのだそうです。
 考えてみれば、刑務所の囚人たちには労働組合はありませんし、社会保険も必要ありません。したがって第三世界なみの低賃金で働かせることができる(囚人が不満を申し立てても、代わりはいくらでもいる)わけですから、企業のアウト・ソーシングの対象にされている(コール・センターを請け負っている刑務所もあるそうです)というのも当然の成り行きであるといえるでしょう。
 あとは、外注センターとなった刑務所に、次々と「人材」を送り込む仕組みを設ければビジネスとして成功することは確実です。そこで、警官の増員、治安対策としての軽犯罪の厳罰化、これらが「テロへの戦い」というキャッチフレーズのもとに進められてきたのだそうです。
 これは、政府が国民の恐怖心を煽るとこのようなことが行われるという事例です。
 アメリカでは、企業や利益団体のためにロビイストが議会に対して働きかけをするので、これらの企業や利益団体のために税金を投入する法案が実現するということが絶えず行われています。この国の民主主義は瀕死の状態であるといえるかもしれませんが、日本がそうなっては困ります。

 日本政府が国民の恐怖心を煽ろうとしている事例はあるのかというと、最近では地球温暖化と新型インフルエンザがそれに該当するといえます。
 地球温暖化については、このブログでもさんざん書いてきましたから、これ以上申し上げることはしません。
 そこで、昨年の新型インフルエンザ騒動について、ちょっとだけ書いておきます。
 日本での新型インフルエンザ騒動の発端は、昨年5月1日未明に行われた桝添厚生労働大臣(当時)の記者会見でした。「カナダから帰国した横浜市の男子高校生で新型インフルエンザに感染した疑いのある患者が発生したという通報が横浜市からあった」というものでしたが、時間帯が時間帯だけに、よほど緊急性が高いのだろうと誰もが思い、あとは新型インフルエンザであることが確認されるのを待つ、という状況になりました。
 しかしながら結果は陰性であり、その発表に大臣は出てきませんでした。
 もっとも4月29日にWHOが新型インフルエンザについての警戒水準をフェーズ5に引き上げるという発表をしたばかりですから、世間の耳目が新型インフルエンザに集中していたこともあり、桝添大臣としても、これは自分が発表しなければならないと思ったのでしょう(非常に好意的な見方をすれば、ですが・・)
 その後、成田空港での検疫体制がテレビで報道されたり、ブラジルでの死者が何百人になったとかいうニュースが続いたわけですが、今にして思えば、次第に報道がヒートアップしていったように思います。
 その結果どういうことが起こったかというと、マスクが売り切れ、ショッピングセンターの入り口や企業の受付ではアルコール殺菌剤が置かれるようになりました。
 また、企業では新型インフルエンザに罹った従業員は出勤停止。しかも治ったという医師の診断書を提出せよというところも現れました。流石にこれは、医療現場では押し寄せる患者の対応に追われているだけにそんな余裕はないということで見送られたようです。
 そこまでやって、新型インフルエンザがもたらした被害は、毎年発生している季節性インフルエンザと患者数と症状において大差なかったわけですから、いささか騒ぎすぎではなかったかと思います(症状が季節性インフルエンザと大差ないことは初期の段階で伝えられていました)。
 そういえば、新型インフルエンザのワクチンを大量に輸入したはずですが、その在庫はどうなったのでしょうか? ワクチンの接種は1回でいいのか、それとも2回必要なのかという議論がされていたなかで、とにかく集められるだけ集めてしまえということで確保されたように記憶しています。
 あれだけ大騒ぎしたのですから、厚生労働省はきちんと発表する責任があると思いますし、マスコミもそのことについてきちんと報道すべきでしょう。それをしないのは、厚生労働省もマスコミも、結果として、国民の新型インフルエンザに対する恐怖心を煽ってしまったということを認めたくないのだろうと思います。
 当時の担当大臣が未明に記者会見を行ったというのは単なるスタンドプレー、軽率の一言で片付ければよいのですが、その後の厚生労働省とマスコミの行動が社会に与えた影響は大きなものがあります。それらは役人の責任回避のための言い訳づくりと記者の功名心によるものでしょうが、日本人も大々的に報道されると国を挙げて思考停止状態になるということが明らかになったという点で、記憶しておくべき事件であったといえます。
 もしも、という議論は不毛であることは充分わかっているのですが、もしもマスコミや厚生労働省の官僚たちの間に、国民の新型インフルエンザに対する不安を鎮めるにはどうしたらいいかという発想があったならば、事態は違った動き方を見せたと思います。
 
 閑話休題。
 現在の日本社会に蔓延っている恐怖は何でしょうか? たぶん最大の恐怖は、自分や自分の家族が失業者になりはしないか、という心配でしょう。それはまだ恐怖というほどのものではないかもしれませんが、バブル崩壊以降、この不安が解消されたわけではありません。
 首都圏では、毎日のようにどこかの鉄道で「人身事故」が発生しています。自殺者の数は毎年3万人を突破しており、減る気配が見えません。
 この点において、日本の政府と政治家たちは無能であったといえますし、現在もその状況は変わりません。

 2番目に大きな恐怖は、子どもを持つ親たちの、わが子に高学歴を授けなければワーキングプアになってしまうのではないか、というものです。
 かつては、大卒といえばステータスでしたが、現在では自動車運転免許並の価値しかありません。価値が変わらないのは、東大や京大、私立では六大学(関西では関関同立)などの一部の大学にすぎません。
 そこで、こどもに塾通いをさせたり、家庭教師をつけたりして、こどもの教育費の負担は大きなものになっています。
 こどもにも適性があるように、すべてのこどもが勉強に向いているというわけではありません。学問をするというのは、ピアノやギターを弾くことができるというのと同じくらいの位置づけです。ただし、学者になった飯を食っていくことができる人は、ピアノやギターを弾いて飯を食っていける人よりもずっと多いことは事実です。
 ワーキングプアというのは本人に責任があるのではなく、そのような人たちを生み出した社会の方が間違っているということに多くの人が気づかない限り、この不安は解消されません。

 政治家も官僚も、もっとシンプルに考えて、今国民が不安に思っていることを解消するにはどうしたらいいか、そういう発想で取り組んだ方が社会に及ぼす効果ははるかに大きいのですから、国民の信頼を回復する絶好の手法であるといえます。
 政府与党の失策やスキャンダルばかりを追求しているのではやがて愛想を尽かされるというのは、過去の世論調査によってすでに証明されています。

 また、私たちの側も、自分たちが不安に感じているものに向き合うことが、この国の進路を決めるうえで必要不可欠であるといえます。それは、誰かによってつくりあげられた恐怖であるかもしれません。あるいは、単なる思い込みによるものであるかもしれません。
 本当の心配事であれば、それを政治家に働きかけることで、それを解消するための政策をとらせることもできると思います

 「ルポ 貧困大国アメリカⅡ」には次のように書かれています。

 アメリカのリベラルな雑誌の一つ『プログレッシブ』のなかで、歴史学者のハワード・ジンはいま、オバマ支持者、特に左派の人々にこう呼びかけている。
 「オバマを私たちと同じ『市民』だと考えるのは間違いです。
 どんなにチャーミングで元コミュニティリーダーの経歴を持っていてとしても、彼は『政治家』なのです。私たちがすべきことはオバマに白紙小切手を渡すことではなく、世論やまわりの環境を動かし、彼に軌道修正させることなのです。」

 白紙小切手というのは、自分たちが納める税金の使い途のこと。「オバマ」の代わりに、日本の政治家の名前を入れてもこの指摘は通用すると思います。
 もちろん、そういう市民を育てるために教育が重要となってくることはいうまでもありません。
by T_am | 2010-04-05 00:02 | その他

by T_am