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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

この国の進路(7)    少子化時代の教育

 昨日(3月31日)のニュースで、文部科学省が来春から小学校で使う教科書の検定結果を公表したということが報じられていました。40年ぶりに学習内容を増やした新指導要領に基づく初の検定ということで、教科書のページ数が急増したとのことです。
 その背景には、日本の児童の学力を国際的に比較すると凋落傾向が続いているという事実に対する懸念があります。また、大学生の学力の低下が著しく、補修をしないと大学の授業についてこれない学生が多いという指摘もあります。
 要するに受験地獄、詰め込み教育ではこどもがかわいそうだという風潮を反映して学習内容を軽減してきた結果、こどもの学力が低下してしまったので、元に戻した方がいいと思われているということです。
 以前もこの欄で申し上げましたが、こどもの学力を測定する方法はテストの実施以外にないのですから、学力を向上させるには無理矢理にでも勉強させるというのがもっとも効果を上げることになります。これには「但し書き」があって、無理矢理勉強させられることに対して、ついていけるだけの能力と意欲が個人に備わっていなければなりません。そうでないこどもに対し、無理矢理勉強させても効果はありません。
 けれども現代社会は高校卒業(それも普通課)という学歴があたかも自動車運転免許と同じような位置づけになってしまっています。これは、ある資格を持っていることがそれだけでアドバンテージになるという事実に皆が気づいたときに、誰もがその資格を取得するようになるために、結果としてその資格の価値が下がってしまう。その結果、その資格を持っていないと他人に比べて不利になるという理由で、その資格を得ようとする状況に陥るという状況を反映しているといえます。現に、多くの親が、高校くらいは出ていないと就職のときに不利なるから、という理由でわが子を高校に進学させようとしています。
 ですから、高校の授業料を実質的に無償化するという政策は、高校に行くのが当たり前という世相を反映したものだと考えることができるのです。

 けれども高校で習う内容は結構難しいものですから、当然ついて行けないこどもが出てくることになります。
 なんでもできる人間というのはきわめて特異な存在であり、大多数の人は、音痴だとか、絵が描けないとかいうなにかしら弱点を抱えています。このように、ある種の適性を持っていないことは人間として恥ずかしいことでもなんでもないのですが、学力に対してはそうではありません。授業についていけないこどもに「落ちこぼれ」というレッテルを貼ることが半ば公然と行われているというのが現状です。
 それよりも、読み書き計算がある程度できて、ちゃんと生きて行くことができればそれでいいじゃないか。そんな合意が社会の中で形成されない限り、意味のないことに社会のリソースが費やされるという状況が続くことになると思います。

 日本の社会に及ぼす影響が大きいのは、実は、大学生の学力低下の方であろうと私は思います。

 日本という国は、外国から資源を輸入し、それを加工して輸出することで外貨を稼ぐということで豊かさを実現してきました。それを可能にしてきたのは、他の国が追随できない技術力が日本にあったからであって、極論すれば、中国でもつくれるような製品をつくっていたのでは、その業界に未来はないということはおわかりいただけると思います。なぜならば、同じ製品をつくるのであれば、中国の方がずっと安くつくれるのですから、価格で太刀打ちできないのは当たり前だからです。
 したがって、中国にはつくれないような製品をつくり続けることが日本の課題であるといえるのですが、それを可能にするのが人材を絶えず産業界に供給する高等教育のシステムなのです。
 すべての日本人が産業界にとっての人材である必要はないので、むしろ適材適所、人はそれぞれの適性に沿った職業(職場ではありません)に就くのが望ましいのです。

 大学生の学力低下という事態は、このシステムが機能不全に陥りつつあることを示しています。その直接の原因は大学受験科目が減ったことであり、なかでも数学が必修でなくなったことに由来します。さらに輪をかけたのが教養学部が廃止されたことです。限られた科目しか履修していない学生が専門課程に進学するという状況が起こり、専門課程で学ぶための基礎が習得できていない学生が大量に生産されることになりました。
 実をいうと、ほとんど授業に出ないでまともに勉強していない学生というのは昔もいました。しかし、学生の何割かは真面目に勉強して専門的な知識を習得して大学を卒業するということが、特に理科系において、堅持されていました。大学に進んだ学生がすべて専門的な知識を持っているわけではない(中にはアルバイトに明け暮れた学生もいます)にしても、何割かの学生はちゃんと学問を身につけているということが担保されているということがシステムとしての高等教育の目的なのです。

 すべてのこどもが大学に進学する必要はありません。また、大学に進学した人であっても学問とは無縁のまま卒業する人はいくらでもいます。それが悪いというのではありません。それよりも、学問というものの考え方をきちんと身につけて卒業する人が常に何割かを確保する仕組みを維持することの方が大事であると申し上げているのです。

 そのために、政府がやるべきことは、教育機関に対してカネは出すが口は出さないという姿勢を貫くことです。政治家と文部科学省の官僚が教育に容喙してきた結果が今日の姿なのですから、いいかげん、自分たちが口出しすればするほど事態は悪化していく、ということに気づいてもよさそうなものです。ところが実際はそうではないのですから、よほど学習能力のない人たちがこのような地位に就いているものと思われます(それでも大学を卒業できるという私の主張の実例でもあります)。
 教育は、金儲けを目的にすると絶対に割の合わない事業です。それでも国家にとっては必要なシステムですから助成金を支給するのです。その費用対効果を直接的に検証する術はありません。
 いや、学力テストがあるではないかとおっしゃるかもしれませんが、教育の効果を測定する手法としてはまったく無意味です。その証拠に、日本の学力テストの頂点に君臨する東大を卒業したキャリア官僚たちが率いてきた日本という国がどんどん暮らしにくい国になってきているではありませんか。それでもまだ学力テストに信頼を置こうとする考え方に合理的な根拠があるとは思えません。まして、学力テストを根拠に市場原理を教育に適用しようというのは亡国の試みであると思います。

 もう一つ申し上げたいのは、教育にかかる家計の負担が重くなる一方である、ということです。
 小学校では様々な教材を購入しなければなりません。数を理解するためのおはじきや棒などがセットになった道具。絵の具と絵筆と画板。習字の道具。電卓(昔はそろばんでした)。リコーダー(あるいはピアニカ)・・・。二人以上のお子さんを持った方であれば、同じようなことを習うのに、なぜ上の子が使った教材を再利用してはいけないのか? 疑問に思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。新しい教材を購入しなければならないというのは、それこそ資源の無駄遣いです。毎年新しい教材を製造することで、それだけCO2を排出することになるのですから、環境省やCO2の削減を訴える人がなぜこのことを指摘しないのか、私には不思議でなりません。
 まわりが皆新品の教材を持っているのに自分のこどもだけが上の子のお古を使っているといじめられる原因になりかねない、という事情があることは充分理解できます。それならば、使い終わった教材を学校で保管しておき、翌年また使うということだってできるはずです。みんながお古を使っていれば、いじめの原因にはならないと思いませんか? 
 思うに、この国では、みんなが広く薄く費用を負担しているけれども、誰もそのことに異論を唱えないということが根付いています。そのうえで、どんどん新しいことをやろうとするものですから、目に見えない負担はますます増えていくことになります。最近の事例では、太陽光発電によって生じた余剰電力を電力会社に買い取らせる原資をひねり出すために、電気料金に対してその分を上乗せしたということがあります。あるいはこども手当を支給するために特定扶養控除を廃止するということも決定しています。
 民主党政権の十八番である事業仕分けは、不要と思われる事業を洗い出すことによって、そこに注ぎ込まれていた資金を他の分野にまわすということを目的としています。これでは国民の負担が減ることはありません。それよりも制度の仕分けをすることで不要となった資金を国民に還元するということの方が経済に与える影響は大きなものがあるはずです。
 年金をみても、一人の高齢者を何人の現役世代が支えるかという指標が今後悪化していくことが指摘されています。ところが失業率は高い水準でとどまっており、新卒の就職率も過去最低の水準にあるという状況で、個人の負担をこれ以上増やすという政策はどう見ても間違っているといわざるを得ません。
 その中で教育費の負担が高まっているというのは、人材を産業界に供給するシステムとしての教育が機能不全に陥る可能性を高いものにしています。日本という国を支えてきたのは製造業の技術力であるといっても過言ではありません。そのアドバンテージが失われたとき、日本人は外国に出稼ぎに行って外貨を国内に仕送りするということを余儀なくされかねないと思います。

 今の日本の教育が抱える問題というのは、高等教育には個人の適性(それはたとえば、ピアノやギターが弾けるというのと同じ種類のものにすぎません)が必要であるにもかかわらず、それを無視して、みんなが身につけなければならないと誤解しているために、教育システムを歪んだものにしてきたということです。その実行部隊は政治家と官僚ですが、それを後押ししてきたのは私たち国民です。これを改めない限り、教育システムの迷走は続きますし、その犠牲者(「落ちこぼれ」というレッテルを貼られる人たち)が絶えることもありません。その上で国力が凋落していくという事態が少しずつ進行していくのですから、これは深刻な問題であるといえます。
by T_am | 2010-04-02 00:27 | その他

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