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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

日本人の「お客様」意識と曖昧さ

 前回のブログで、アメリカと中国のことについてちょっとだけ触れましたが、日本のことにはほとんど触れませんでした。そこで、今回はそのことについて考えてみることにします。
 アメリカ人には自分が正しいと信じるものを守るために戦うというメンタリティがあると申し上げました。では、日本人はどうかというと、日本人にとっては権利や自由は与えられるものであって、戦って勝ち取るという発想は皆無であるといえます。いったん与えられた権利や自由が侵害されることについては敏感に反応しますが、新たな自由や権利については著しく鈍感です。
 いわゆる「クレーマー」や「モンスターペアレント」が発生する土壌はここにあります。
この人たちは自分や家族の権利が侵害されることには敏感ですが、他人の権利には意識が及ばないという共通点があります。
 人間は社会の中で暮らす生き物ですから、自分が享受する利益は常に社会が享受する利益の一部分であるという事実に気づきそうなものですが、この人たちはそのことについての想像力がありません。関心があるのは常に自分の利益であって、そのためには社会や他人の利益はどうなっても構わないという発想をします。
 クレーマーやモンスターペアレントと呼ばれる人々のクレームがいかに理不尽なものかは、数々のサイトをご覧くださればおわかりいただけると思います。そこに共通するのは、常に自分の利益が侵害されたということであって、他人はどうでもいいという幼児的な思考法です。
 自分の信念が侵されたときに戦うことを躊躇しないという精神とこの人たちが異なるのは次の点です。

1.他人との関係を等価交換として理解していること。
2.自分が受け取ったサービスが、支払った対価に見合わないと感じること。
3.クレームをつける相手が自分に危害を加えることはないと予めわかっていること。

 クレーマーやモンスターペアレントが、ヤクザや「危ない人」にクレームをつけるということはありません。この人たちは他責的かつ他罰的な発想をしますが、相手が「危険な人」であると思うと口をつぐみ、そうでないとわかると居丈高になります。
 そうやって誰かが「おいしい思い」をしたと知ると、では自分もひとつやってみようかと思い、うまくいくとそれで味をしめるのです。いわゆる「ごね得」というやつであり、このような精神性はインフルエンザ・ウィルスのように感染していくようです。
 先日、空港の手荷物検査場で鞄に反応があった乗客が係員から「お鞄を開けてもよろしいでしょうか?」といわれたのに対し、「よくねーよ!」と怒鳴っているのを見ました。結局自分でペットボトルを取り出して検査してもらい、無事通過できたのですが、待合室の中でその男が連れに自慢げにそのことを話していました。
 これがアメリカの空港であればこの男もおとなしく従っていたことでしょう。自分よりも強い者には従順なくせに、自分よりも立場の弱い者に対しては強気になるという人間はどこにでもいるものであり、日本人だけの性質であるというものではありません。
 しかしながら、「客」に対して「お客様」として丁寧に接するのは日本の特徴であり、他の国々ではもっとフランクに接するのが普通です。日本では、スーパーで買い物をすれば、金額の多少に関わらずレジ係の女性が両手をそろえて「ありがとうございます」と頭を下げてくれます(機械的にやっている人もいますが)。このように客を大切に扱う姿勢は外国から来た人にも好評であり、決して悪いことではありませんが、私たちはそれに慣れすぎているように思います。
 自分は客であり、買うかどうかの決定権を握っているのだから、多少の無理難題をいっても構わないのだ。このように考えて、実際に行動に移す人が増えていることも事実です。
 それでは何を持って客というのかといえば、金を払うからだという定義が定着しつつあるようです。つまり、金を払う以上自分は客なのだから俺のいうことをきくのが当たり前だと考えるわけです。
 問題は、金を払う者=客という意識が商取引以外の分野にも広がりつつあることです。教育や医療は商取引ではありません。にもかかわらず、自分には権利がありお前には義務があるという理屈で行動するのです。
 義務教育とは、子供に教育を受けさせる義務を負っているのは親であり、子供は教育を受ける権利があるというものです。この場合の権利と義務は親子の間に存在するのであって教師や学校(あるいは自治体や国)が義務を負うのではありません。ここのところを誤解している、というよりは考えたことのない人が多いのです。
 教師や行政にあるのは学校を運営管理する責任です。責任を負う者にはそれを果たすために権限が与えられ、教師の場合は生徒に指示をして服従させることができるというのが権限となります。(ただし、「権限」という言葉通り、教師は何をしてもいいというわけではありません。権限には範囲が合って、それを逸脱して行使することは許されないのです。)
 そして、学校や教師が運営管理責任を果たすために親も協力するというのがあるべき姿となります。ですから学校や教師が責められるとすれば、それは運営管理において不作為(たとえば「いじめ」があると知りながら見て見ぬふりをしていた、など)や重大な過失があった場合と権限を逸脱した場合となります。
 ところがモンスターペアレントと呼ばれる人たちのクレームの内容は自己中心的なものです。その背景には保護者の「お客様意識」があるのは疑いないのですが、日本でこのような現象が起こるのは権利と義務、責任と権限ということについてきちんと教えられていないことも原因であると私は考えます。
 戦後GHQによって日本国憲法の草案がつくられました。そこで日本人はそれまで持っていなかった様々な自由と権利を手にすることができたのですが、それらを充分に咀嚼する余裕がなかったといえます。つまり、なんだかよくわからないままに様々な自由と権利を手にしたのです。
 日本中がそうでしたから、子供たちに対して教師もそれをきちんと教えることができませんでした。というよりも、どうやってカリキュラムに組み込んだらいいのかもわからなかったのだといえるでしょう。そういうことが曖昧なまま、そのときそのときの社会の雰囲気(これを世論といいます)で、何となく方向が決まってしまうという状態がずっと続いています。
 ろくに物事を考えず、何かわからないことが起こると他人の意見に頼ろうとし、その挙げ句その場の雰囲気に流されてしまうというのが私たちに固有の性質であるといえます。また、よく考えないのですから何事も自分に都合のいいように解釈してしまいがちです。 それらは性質なのですから直しようもないといえますが、それでもせめて国とは何か、自由とは何か、個人の権利と義務とはどういうものなのか、ということについての合意を形成しておかないとこの国はますますおかしな方向に行ってしまうと心配されます。
 民主党は永住外国人に対し地方参政権を与える法案を提出する考えでいるようです。一方これに対する反対意見は根強いものがあり、どうなるかはわかりません。反対論者の主張のひとつに「選挙権がほしければ日本に帰化し、日本人として生きていくという意思表示をするべきだ」というのがあります。これはこれで理屈が通っているのですが、現実には日本国民である父親または母親から生まれた子供は自動的に日本の国籍を持ち、その子が成長して大人になっても日本人として生きていくという自覚がないという人も大勢いるわけですから、素直に受け入れがたいところがあります。
 法の定めるところによれば、日本国籍を有することが日本国民であるとされています。日本国民である親から生まれた子供は自動的に日本国籍が与えられるのですから、これでは日本国民とは何なのかという質問に対する解答とはなりません。
 私たちは、自分が日本人であるということに何の疑いも持ちませんが、日本人であるとはどういうことなのかを考えたこともありません。これはこの法案に賛成している政治家においても似たり寄ったりであると思われます。
 このように、日本人であることについての私たち自身の意識が曖昧であるがゆえに永住外国人に対し地方参政権を与えるという発想が出てくるのだろうと思います。ここでも、あまり物事を深く考えずに決めてしまうという私たちの性癖が出ているように思います。
 そうなると、永住外国人に対して地方参政権を与える法案というのは、実は審議するだけの土壌が私たちの間に熟成されていないということに気づくのです。
 そういう状況にありながら、このような法案を提出しようとするのは実に危うい行為であると申し上げざるを得ません。
by T_am | 2010-01-24 01:35 | その他

by T_am