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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

教員免許の更新制度、6年制と専門免許

 今の日本で最も割に合わない職業といえば、たぶん教師ということになるのだろうと思います。というのは、教師に対する要求は年々増え続けてきており、それができないときは不適格教師というレッテルを貼られてしまうからです。
 教師の仕事をざっとあげてみると、授業をどのように組み立てるかという事前の準備があります(これは、本人の要領のよさにもよりますが、良心的であればあるほど時間がかかるだろうと容易に予測することができます)。そして、時々行われるテストの採点(ときには問題づくりもしなければなりません)をし、記録につけるということもしなければなりません。
 さらに担任になると、生徒指導というものが加わり、生徒の一人一人をみなければなりません。小中学校では年に数回保護者との面談もありますから、その準備も大変です。
 また、部活の顧問になるとさらに時間をとられることになります。昔と今を比べると、顧問となっている教師の取り組み方・時間のかけ方というのは雲泥の差があると思います。それだけ今の教師は時間を割いているということです。
 ほかにもいろいろとあるのでしょうが、ざっとみても教師はこれだけのことをやらなければなりません。そこに、何かしら問題が発生しようものなら、パンクしても不思議ではないと思います。
 みんなよくやっていられるな、と思うのです。
 オーバーワークになったときの人間の行動のひとつに、「放置する」というのがあります。つまり、「何もしない」というものです。それがやっかいなものであれば、見て見ぬふりをすることで過負荷となることを避けようという心理が働くのです。
 今までやってきたことと同じことをやり、新しいことに手をつけない限り、オーバーワークになることはありません。ベテラン教師が陥りやすいマンネリ(授業内容が毎年同じという教師は昔もいました)もそれにあたります。
 もう一つは、徹底的に割り切って自分の権利を主張することです。「勤務時間外ですからこれ上のことはできません」とか「休日なので休ませていただきます。部活の指導はできません」とかね。

 ところが、親にしてみれば、自分の子どもを預けているのですから、教師に対して何らかの期待を持つのは当然であり、やむを得ないことであるといえます。自分の期待したことを教師がやってくれれば、「いい先生にあたってよかった」ということになりますが、そうでなければ「あの先生はなにもしてくれない」と不満を持つようになります。

 今の親は昔の親に比べると教育に対する知識をけっこう持っているので、それだけ教師に対する注文が増えていると思います。そこに、学級崩壊、校内暴力、いじめ、学力低下、等々の問題が発生すれば、その責任の所在は誰にあるのだという声が起こり、教師が槍玉にあげられることになります。

 安倍内閣のときに教員免許の更新制度が導入され、今年から実施されました。当初はいわゆるダメな教師の免許を更新しない(つまり排除する)ということを念頭においていましたが、その後、文部科学省によれば「定期的に最新の知識技術を身につける」という目的に変わっていきました。これをまともに受け取れば、まことにけっこうな制度であるといえると思います。
 しかしこの制度には日教組が反対しており、それを支持基盤とする民主党政権はこの更新制度を廃止する意向を打ち出しました。
 10月14日、文部科学省の鈴木寛副大臣はマニフェストに掲げている教員養成課程の6年制や専門免許制の導入に伴い、スタートしたばかりの更新制度を廃止する考えであることを発表しました。6年制というのは従来の4年制に加え、大学院での2年間の修士号取得を免許の条件とするほか、従来は2~4週間だった実習期間を1年間に延ばすというものです。また専門免許は従来の免許の上級免許にあたり、実務経験8年以上の教師が2年間の研修を経た上で取得できるというものだそうです。
 6年制にすることに対し、当然反対する声もあがっており、その理由として教師としての適格性は学歴とは関係ない(大卒でもダメ教師はいるし、短大卒でも優秀な教師はいる)以上6年に延長するのは無駄であるというものです。
 また免許の更新制度廃止に対しても、現状を見る限り教師たちは真剣に講習を受けており、講習する側の準備と受講する側の意欲によって大きな効果が期待できるとして反対する声もあり、まさしく正論であるといえます。
 さらに更新制度廃止に反対する意見として、せっかくダメな教師を排除することができる制度を設けたのになぜ廃止するのだ、というものもあります。
 9月14日付の産経新聞の「主張」欄では次のような意見が述べられていました。


(前略))
 また教師は自分の授業を客観的に評価される機会が極めて少ない。ベテランがマンネリ化し、学級崩壊を招くケースも報告されている。指導法を見直す機会としても、更新制は意味が大きい。
 輿石氏(民主党参院会長のこと。輿石氏の支持母体は日教組である。筆者注)は過去にも「教員の政治的中立はありえない」などと耳を疑う発言をした。だが政権が代わったからといって、教育の重要施策が特定団体の意向などでねじ曲げられることは許されない。
 家庭や地域の教育力低下が懸念される中、公教育再生のカギを握るのは教師だ。適切に評価し、鍛える更新制を機能させねばダメな教師が増えるばかりだ。



 産経新聞らしい論調であるといえばその通りですが、この文章が、ダメな教師が今日の教育の改革を阻む要因となっているという前提で書かれていることは明らかです。
 でもね。ダメな教師というのはいったいどのような教師をいうのでしょうか? 授業が下手? 学級崩壊をくい止めることができない? いじめがあっても見て見ぬふりをしている? 校内暴力が起こっても対処できない?
 
 生徒が教師に服従するのは、ある種の「約束事」に基づいています。その約束事というのは、「先生のいうことをきかなければならない」という至極単純な義務感に由来します。子どもが親のいうことをきくのは、そのように躾がされるからです。これを我慢という言葉に置き換えてもできるでしょう。ときには地域社会がそれを子どもに教えることもあります。
 けれども何らかの事情によって、我慢することを覚えなかった子どもや我慢しなくてもいいのだと思った子どもは、いとも簡単にこの「約束事」を踏みにじります。それは教師の責任でしょうか? 「家庭や地域の教育力低下」と「主張」の筆者も指摘しているように、その原因は家庭(もっとはっきりいえば親)や地域社会にあると考える方が自然でしょう。
 しかし、そのことはあまり取り上げずに、教師の対応が悪いこと(つまり、ダメ教師)の方が問題だとする論調があまりにも強いといえます。
 今の教育に問題があると感じているというのは理解します。だからといって改革の必要性を声高に叫ぶ人の中には、自分たちが現場の担当者である教師の足を引っ張っているという自覚がない人も見受けられるのです。
 たとえば体罰は、その用い方によって躾にもなれば暴力にもなります。暴力になるかどうかは用い方の問題(高校生の頃体育教官から、平手打ちをするときは鼓膜が破れない程度に気をつけていると聞かされたことがあります。つまり、相手が怪我をするかどうかが暴力と躾の境界であるというわけです)であって、体罰そのものは単なる手法に過ぎません。けれども体罰が全面的に禁止されて久しいので、教師たちは強力な手段をひとつ奪われた状態が続いています。それでも時折体罰をしたといことで新聞沙汰になることがあり、その場合、教師は校長といっしょに生徒の自宅に出向いて謝罪することが通例になっています。今日の日本社会は偏ったところで過敏になっているような気がしてなりません。

 何か問題が起こって自分がその被害者になったとき、その責任の所在を他人に追求しなければ気が済まない人というのはいくらでもいます。その人たちに共通するのはデタッチメントという特徴であり、これじゃ友達もいなくなるよな、と思わざるを得ない人が多いのです。
 その中でも特に頭の悪い人は、他人の責任を追及するときに、「文書にして出せ」とか「いつまでにやるんだ」と機嫌を自己申告させるよう圧力をかけることを平気で行います。挙げ句の果てに「ちゃんと謝罪しろ」とか、甚だしい場合には「土下座して謝罪しろ」と要求するのですが、自分の気が済めばそれで問題が解決すると思っているあたり救いようがありません。そういう頭の悪い人たちが、意欲のある教師たちを萎縮させ、自信を失わせているのです。(これはパワハラを行う上司にもいえることであり、仕事をさせるためというよりは自分の憂さ晴らしのために部下が存在していると勘違いしているのです。これもまた救いようのないバカであるといえます。)

 長々と書いてきたのは、熱心に生徒を指導している教師を何人も知っているからです。その人たちの邪魔をするようなことはしたくありませんし、これからも研鑽を積んで生徒の指導にあたっていただきたいと思います。
 学級崩壊やいじめ、学力低下という問題があることは私にもわかります。しかし、その責任を教師に押しつけて、問題を解決するためといっては制度をいじっても、かえって現場の教師のやる気を削ぎ、時間を奪う結果になっていると思うのです。
 教員免許の更新制度に伴う講習の実施というのは、意欲のある教師にとってはとてもいいことだと思います(意欲のない教師にはいい迷惑でしょうが)。それよりも、ダメ教師には免許の更新をせず失職させるというのは異常なことではないかと思います。第一に、ダメ教師の定義が明らかではないこと、第二に、人事評価について信頼性のおける手法が未だに確立されていないこと(講習後の試験に合格しなかった教師がダメ教師であるという判定には合理的な根拠があるとは思えません)、第三に、解雇権の濫用にあたると覆われるからです。
 懲戒解雇というのであれば誰もが納得するでしょうが、ダメ教師については確立した定義もなければ合理的な人事評価の手法もないわけですから、どのような教師が教員免許の更新を拒否されるかというと、恣意的に行われる危険性が高いといえます。したがって、更新制度について文部科学省が「定期的に最新の知識技術を身につける」ことを目的としていることは理に適ったものであると評価することができます。

 一方、民主党政権が打ち出している6年制については、修士号の取得を教師になるための条件とする理由に合理性があるとは思えません。また、専門免許についてはどのように運用されるのかがまだ明らかにされていないのではっきりとしたことはいえませんが、専門免許を取得しても仕事の内容が劇的に変化するのでなければ意味がないといえます。
 免許というのは、それを持っている人にしかできないことがある(大型トッラクやバスは大型免許がないと運転できません)からこそ意味があるのです。
 しかし、学校においては、生徒に教える仕事に上級も下級もありません。たとえば、普通免許しか持たない数学教師は1次方程式しか教えられないが専門免許を持つ教師は2次方程式を教えることができるという区分を設けたとして、それがばかげていることは誰でもわかることです。
 となると専門免許の活用方法としては、それがないと管理職(教頭や校長)になれないということくらいしかないと思われます。
 しかし、それならば昇格試験というもっと手軽で安上がりな方法があるのですから、わざわざ高い費用(=税金)と大勢の人手と時間をかけてまで設ける意義のある制度なのかという疑問が拭えません。それこそ「無駄な予算」ではないでしょうか?

 人は誰かが認めてくれることで嬉しいと感じる生き物です。逆に、誰も認めてくれる人がいないと寂しさと空しさを感じるようになります。さらにいえば、誰かが自分を否定すると自分の存在意義に疑問を感じるようにもなっていきます。
 私たちは他人の責任を執拗に追及することによって憂さ晴らしをしていますが、それは他人を追い詰めるだけの不毛な行為であることが多いのです。
 教師たちに同情せざるを得ないのは、絶えず保護者たちからプレッシャーをかけられているだけでなく、本来は彼らの味方であるはずの官僚と政治家たちが、改革の名の下に、彼らの足を引っ張ることに異常な熱意を燃やしていることです。
 いっそのこと教育に関わる官僚と政治家を大幅に減らした方が、余計なことができなくなるので、日本の教育にとってははるかに有益ではないかとさえ思うのです。
by T_am | 2009-10-16 23:26

by T_am