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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

「公」という概念

 公という言葉には、秘匿してはいけないもの、私物化してはいけないものというイメージが備わっているように思えます。
 公は私とセットになった概念であるといえます。
 社会の中に存在する無数の「私」は放っておけば無制限に拡大していく傾向があるために、それらの「私」を抑制すると同時に、「私」同士がが互いに衝突するのを防ぐ緩衝地帯としての役割を担っているようにも見受けられます。
 以下は余談ですが、常用字解によれば、公は「宮廷の中の儀礼を行う式場の平面形」であり、「ここで行われる儀礼・行事が公事・公務(おおやけの仕事)である」と解説されています。江戸時代「公」には「お上」という意味があった(公儀=幕府のこと)のはこのようなところから来ていると思います。さらに、宮廷で行われる公事や公務は等しく国民にかかわることですから、偏りがないということから公平・公正・公共という言葉が生まれてきました。
 また、「八」には開くという意味があり、公の古い字形は下半分が「口」であったことから入り口を開いて公開すると意味であると漢字源では解説しています。すなわち、おおっぴらにして包み隠すことをしないという意味になります。
 一方、「私」の源字である「厶」には、三方から取り囲んで隠すという意味があって、公とは反対の言葉であるともしています。私語(ひそひそ話)や私利(自分のためだけの利益)、私物化(独占すること)などはこの隠すという意味から来ている言葉です。そういえば私有地(他人が勝手に入ることができない土地)というのもそうですね。
 このように、公と私には相反する意味(片方はおおっぴらにする、もう一方は隠す)があるのですが、互いに光と影のようにセットで考えるべきであると思います。
 たとえば、この世のすべてが「私」に属してしまうとどうなるかというと、自分のものでないものはすべて誰か持ち主がいるということになりますから、自分の家から一歩も外に出ることができなくなってしまいます。なぜなら道路は誰のものでもないからこそ誰でも自由に歩くことができるからです。そうなると自分の土地だけで自分の食べるもの、飲むもの、着るものを調達しなければならなくなり、そんなことは不可能であるということがわかります。逆に、この世のすべてが「公」に属し、誰のものでもないということになると、たぶん人類は他の動物との生存競争に勝つことはできなかったと考えられます。もしくは今でも石器時代の暮らしをしていたかもしれません。(社会主義体制は、私有財産制度を廃止し生産手段を共有するというものでしたが、共産党幹部および官僚という特権階級を生み出し、結果として自滅してしまいました。)

 公と私はほどほどがちょうどいいのだといえます。「私」が強すぎると弱肉強食の世の中となり、今日のような格差の拡大と固定化を招いてしまいますし、その一方で「公」が強くなりすぎると個人の自由が損なわれます。かつての社会主義国に見られたように、「公」に名を借りた強権政治体制が登場することにもなりかねません。

 ここで気がつくのは、「私」は人間の欲望に基づくものですが、「公」は人間が創作した概念に過ぎないということです。既に述べたように、「公」はともすれば無制限に肥大しがちな人間の欲望を制限する作用を持ちますが、それは一人一人の自制心に頼らざるを得ないのです。だから、海岸で誰かが空き缶を捨てれば、次に来た人も安心して空き缶を捨てることになり、海岸はたちまちゴミの山と化してしまいます。
 このように「公」には危うさが伴うのですが、日本人は「世間の目」という概念を発明することで、この危うさを補強してきました。店などで子ども連れの母親が「そんなことをするとお店の人に怒られるからやめなさい」と叱る光景が以前はよく見られたものです。このような叱り方は、親の主体性(自分の子どもが悪いことをしたら親がまず叱るのが当然だという考え方)を損なうということで最近はすっかり見かけなくなりましたが、公の場では、この場にいない第三者の目を子どもに絶えず意識させることになり、その結果として自制心を養うという効果があったことは否めないと思います。
 それでも人間が群れの中で暮らす限り、少しずつ「公」という概念を身につけて育っていきます。ただし、それは自分と同じレベルの人間の群れの中ではわからないのであって、誰か自分よりも上の人(たいていは年長者)から教わらなければなりません。「公」を教えてくれるのは、自分よりも上の人たちですが、「公」を踏みにじるのもまた自分よりも上の人たちです。目上の人たちが「公」を蹂躙することが度重なると、誰もが「公」を蔑ろにするようになります。
 今日の社会で「公」に属すると思われているのは無数にあり、私たちはそのいずれかにかかわっています。もっとも身近な「公」といえば会社がそれにあたると思います。企業は社会の公器であるという格言と通じるところがあるのですが、かつて本田宗一郎と藤沢武夫が「会社は個人のものではない」として身内を入社させず、揃って現役を引退したときに世間の喝采を浴びたのは会社を「公」としてとらえる意識の琴線に触れたからです。逆に、自分の息子に跡を継がせるというのは、私企業である以上法理的に少しもおかしくないのですが、どのような経営者であってもきまりが悪いようです(それでも跡を継がせるのが普通ですが)。また、「同族会社」という言葉にある種の負のイメージがあるのも、「公」に反するという負い目によるものであるといえます。会社に対する「公」のイメージは、その会社が大きくなればなるほど、また知名度とともに強くなるようです。そこに属する社員もまた「公」に属する者として、不祥事などを起こせば、それだけ風当たりは強くなります(人間には、高みにある者を引きずり下ろすことに快感を覚えるという底意地の悪さが備わっています)。
 現代では「公」の筆頭といえば、役人・教師・警察官・消防署員・自衛官といった公務員があり、これに議員が加わります。これらの職務に就く人が汚職や不正、あるいは性犯罪などの不祥事を犯すたびに、「国民は自分たちが属する社会に対する敬意をうしなってしまう」(司馬遼太郎「この国のかたち・汚職」より)ことになります。それが社会に与えるダメージは、同じことを民間人がした場合よりもはるかに大きいために、これらの公的職業に就く人に対する風当たりはそれだけきついものとなり、ときには揶揄の対象となります。真面目に勤務している公務員の中にはそれが憤懣やるかたないという方もおられることと思いますが、現実にそのような事件が後を絶たず、日本の社会を暗くして来ている以上致し方のないことであるといえます。
 権力の暴走を防ぐために三権分立があり、さらにこれを補完するために様々な制度(たとえば検察審査会など)が設けられているのですが、決して完全ではありません。仕組みを整備することで個人が犯すミスは防止することができますが、故意に基づく犯罪行為を防ぐことはできないのです。

 「公」は社会を維持する上で不可欠の要素です。それは「私」がのさばってくると容易に蝕まれていきます。その結果、自分が属する社会に対する敬意と愛着が失われていき、殺伐とした世の中になっていくことは皆様が常々感じているとおりです。それを防ぐには一人一人の自制心に期待する以外ないというのが実情です。

 私がする行為はどこかで誰かが見ていてくれる。
 よい行いはきちんと認めてくれる人が必ずどこかにいてくれる。
 だから、私がする悪い行いは、その真似をする誰かがいても不思議ではない。
 もしかすると、その誰かとは私の子どもたちであるかもしれないのだ。
by T_am | 2009-10-13 00:27 | その他

by T_am