権力は罪人をつくる
表題にもあるように、組織というのは何か事件や問題が起こるとその犯人を特定し、これを処罰するということで決着をはかります。これは民間の組織や企業であっても同様であり、それをしないと組織や体制が維持できなくなるということがわかっているからです。そのときに重要なのは、真実よりも誰もが納得できる疑わしさであり、したがって、ときには誰かが罪を一身に被る(そのほかの人間は罪に問われない)ということも起こります。、
冤罪には二種類あって、権力を持つ側が自分の都合により誰かを犯罪者に仕立てる場合と、疑わしいと思われる人間をその事件の犯人に仕立て上げる場合があります。
第一の場合には江戸時代の蛮社の獄や明治時代の大逆事件などがあります。どちらも検挙された人たちは何か犯罪を犯したわけではありません。でっち上げによって罪人にされたという点が共通しており、権力者は自分に都合の悪い人間を陥れることがあるという証左でもあります。
思想は、それが権力者にとって都合の悪いものであっても、自由が保障されるべきです。幕末の攘夷思想は、幕府にとって都合の悪いものであり攘夷志士に対する弾圧が行われましたが、明治維新の原動力となりました。今日の日本はその延長にあります。したがって、思想と犯罪は区別して考えなければなりません。その発露が日本国憲法第19条に定められている「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という条文です。
ここで強調しておかなければならないのは、憲法に書いてあるから思想良心の自由は保障されなければならないというものではないということです。むしろ、思想良心の自由を保障した国家をつくるという基本的な理念が先にあって、それが憲法に結実していると考えたいと思うのです。ですから私は、原則的に改憲もありうるという立場です。どういう国にするかという理念が変われば憲法も変わることだってあると考えるからです。
第二の場合は、思い込みとこじつけによって発生します。足利事件でも、アダルトビデオを多数所持しているということと職場の経営者の「そういえば子どもを見る目つきが怪しかった」という証言によって犯人の目星がつけられ、一年間毎日尾行されたとのことです。
http://www.watv.ne.jp/~askgjkn/frmasikagajiken.htm
警察が尾行した目的は犯人であるという証拠を見つけるためです。ですから、犯人であるということに結びつかない物証は一顧だにされないことになります。
これは決して人ごとではありません。電車に乗っているときに、見ず知らずの女の人に手首をつかまれて「この人痴漢です!」と叫ばれたら、その瞬間に周囲の人間から痴漢として扱われてしまうのです。示談金目当ての痴漢でっち上げというのもあるようですから、電車に乗るときはできるだけ女性に近づかない、吊革をつかんだり荷物を持ったりして手を塞いでおくという自衛手段が必要な時代になってしまいました。
捜査当局が「犯人であるという証拠」をみつけようとするのは、こいつならば事件を起こしたことも納得できるという感情が大きく影響しています。
1998年7月に起きた毒物カレー事件の犯人とされた林真澄被告の死刑が確定しました。林被告の自白がなかったために、状況証拠だけで死刑判決が確定するという珍しい事件となりましたが、林死刑囚が犯人であると思っている日本人は多いと思います。というのも林死刑囚が亜砒酸を用いた保険金詐欺を働いていたという報道がさんざん行われたからです。そして、カレーに混入された毒物も亜砒酸でした。
和歌山の毒物カレー事件が冤罪事件であったとは申しませんが、被疑者が無罪かそうでないかの判断を他人が判断する以上、こうした「予断」が入り込む余地は多分にあるといえます。
世論が好ましくない人物であるということに傾いたときに、捜査当局による「こじつけ」が行われる余地が出てきます。したがって冤罪事件はこれからも発生すると申し上げないわけにはいきません。
ではなぜ、冤罪があってはならないのかというと、個人の人権を侵害するということもありますが、権力による思想の弾圧に結びつくからです。だから冤罪はあってはならないのですし、見逃してはならないのです。
冤罪が今後も起こると考えられる以上、被疑者や被告が自分の無実を立証できる機会をできるだけ確保しておくという発想で制度設計が行われる必要があります。
現在議論されている取り調べの可視化(録音・録画)は、被疑者を精神的に追い詰めて自白させるという現在の(伝統的的)捜査手法ができなくなることを意味します。
そもそも取り調べを行うのは事件の経緯と動機を明らかにするためであって、それは被疑者を尋問しない限り解明することはできません。その際、被疑者の話の内容に矛盾や嘘があってもそれを見破るということが警察と検事には求められます。具体的には、集められた様々な証拠と供述内容をつきあわせることで検証していくことになります。
このように、被疑者の自供がない限り取り調べは進まないので、どうやって被疑者に自供させるかがポイントとなります。
映画やドラマでよく見かけるのは、大きな声を出す、机をたたく、椅子を蹴る、長時間尋問する、そのうえでやさしい言葉をかけるなどの手法を駆使して、被疑者を怯えさせ、かつ疲労させて精神的に追い詰めることによって自供させるというものです。
足利事件でもそうでしたが、冤罪事件の被害者たちが一様に話しているのは、早く楽になりたいという一心でやってもいない罪を認めたというものです。それはそうでしょう。普段警察のやっかいになったことのない人であれば、取り調べというのは不安でいっぱいなわけです。一方、取り調べをする人間は、自供させることを目的としているわけですから、被疑者が自供するまで解放することはあり得ないのです。
ただし、このような取り調べのやり方であっても、真犯人を自供させることができるというプラスの側面も持っています。したがって、取り調べの様子を可視化することによって伝統的な取り調べの手法を不可能にするということは、濡れ衣を着せられた被疑者を助けるだけでなく、真犯人をも見逃すことになりかねないのではないかと思います。
なお、取り調べの様子を部分的に可視化するということは、警察や検察にとって都合のいいところだけを記録に残すことを可能にするので、司法による判断を誤らせることになりかねません。
冤罪事件というのは、警察官や検事によってつくられた架空のストーリーを精神的に追い詰められた被疑者が受け入れることで成立します。
したがって、取り調べの一部始終を可視化することは捜査当局による違法性の高い取り調べに対して大きな歯止めとなることが期待できるのですが、その反面真犯人をみすみす逃してしまうことにもなりかねないというリスクも伴います。また、取調官が熟練者であれば、被疑者をわざと興奮させ反抗的な態度をとらせるなどして、裁判の際に公開されたときに裁判員の心証を悪くするということを企てるという可能性も否定できません。
かといって被疑者の人権を無視していいということにはならないので、取り調べの可視化を否定してしまうのも悩ましいところです。いえるのは、可視化されたからといっても録音録画されている内容が真実であると鵜呑みにすることはできないということです。
過去の冤罪事件において被告が無罪となったのは、取り調べの違法性が立証されただけではなく、検察が描き出したストーリーの矛盾が指摘され、論破されたことからではなかったかと思います。足利事件の場合も有罪の決め手となったDNA鑑定の結果が実は一致しなかったという事実が決定打となりました。
ただし、冤罪事件の被疑者が個人で自分の無実を証明するというのは至難の業であり、多くの人の支援が得られなければ事実上不可能です。そうすると、どうやらこのあたりにメスを入れる余地があるように思われます。
特定の個人に対する根拠のない噂や中傷、差別があって、これがマスコミを通じて増幅されると、その人が犯人であるかのようなイメージが一人歩きすることになります。そこに恣意的な捜査が加わると冤罪事件ができあがることになります。
このことは、私たち一般市民の立場にある者も冤罪事件に荷担しているということになり、そのことは忘れてはなりません。冤罪事件が起きたならば、誰かがそれを正さなければなりません。科学はそのためにあるのであって、根本にあるのは、この世に存在するすべてのものは人を幸せにするために用いられるべきだという考え方です。
自分が裁判員となって、冤罪と知らずに有罪判決に一票を投じることになったらどうしよう、と心配する声もありますが、考え方としては間違っていると思います。