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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

ダウンサイジング(3)  契機としての裁判員制度

 先日のニュースで、裁判員登録の通知を受け取った3名の男性が、実名を公表して、裁判員制度に反対するという会見を行ったというのがありました。裁判員法が、候補者に対し氏名や住所などを公にすることを禁じているにもかかわらず、自ら名前を公表したというのがポイントです(実際にはマスコミがこの人たちの名前を報道することはしていません)。
 私自身は、自分が裁判員に選ばれたとすれば拒否することはしませんし、家族が選ばれたならば裁判に行くことを勧めると思います。今回はそのことについて述べてみます。

 一方、ネットで行われたアンケートの結果によれば、(http://www.excite.co.jp/News/it/20081219/Markezine_6161.html)

 裁判員に選ばれたら行くかについてたずねたところ、「本音は辞退したいが行く」が最も多く42.5%で、「辞退したい」が25.9%、「辞退する」が8.8%で、合わせて34.7%もの人が辞退の意向を示し、「必ず行く」は22.8%となっている。年代別では特に20代で「辞退する」が17.9%

 となっていたとのことです(有効回答数421名、男性52.3%、女性47.7%)。裁判員制度に否定的な情報がネットには多いので、心情はともかく「行く」と回答した人が65.3%いたということには正直いって驚きました。

 辞退の理由については、全体の50.7%が「仕事が忙しいから」と回答し、性別、年代問わずトップとなった。次いで「トラブルに巻き込まれそうだから」が30.8%、「不利益が生じそうだから」が29.5%と続き、「育児や介護があるから」「何をするのかわからないから」が10%台。「育児」 「介護」といった認定可とされる辞退理由よりも関連トラブルを心配する人が多くなっている

 こうしてみると、辞退すると答えた人の6割は、裁判員の仕事をするよりも優先すること(仕事や育児、介護)があると考えていることがわかります(辞退理由は複数回答可としているようです)。また、裁判員になることが自分の不利益になると思っている人も6割程度(「トラブル」と「不利益」の合計)いることもわかります。このように考えている人の、回答者全員に対する割合はおよそ2割程度となります。
 裁判員制度に反対する人たちの主張をネットで拾ってみると、「裁判員制度はいらない! 大運動」という市民団体のサイトがあったので、そこに掲載されている反対理由を引用して考えてみることにします。 http://no-saiban-in.org/

 第1に、裁判員制度は、そもそもその実施を国民が望んでおらず、国会でもまともな討論がほとんどないままに成立したものです。また、各種の世論調査によれば、制度の実施が約半年先に迫った現時点でも、国民の8割前後が消極意見を持っています。すなわち、裁判員制度は、国民の要求とはおよそかけ離れた、とんでもない制度です。
 第2に、裁判員制度は、非公開で行う「公判前整理手続」と3~5日で終える連日法廷による拙速審理により、被告人の防御をつくす機会を制限し、その権利を侵害するものです。さらに、「人を裁きたくない」と考える裁判員候補者であっても、その思想信条を無視し、罰則付きで裁判員になることを強制し、人を処罰させようとするものです。

 第1の理由について、私には同意することができません。そもそも政策や制度改革は(消費税の導入のように)国民が望んでいないことも行われるのが当たり前であって、それを実施するかどうかを、国民が望んでいるかどうかによって決めるのであれば、国会での論議は不要となります。その結果、小泉元総理のように世論の操作に長けた政治家が思うように政治を行うことができるようになるわけです。そのことに私は懲りています。民意は常に正しいのだから政治は民意に従うべきだ、というのは国をミスリードすることがあると思います。
 また、論理の進め方も、「8割前後が消極意見を持っています」というのは、「必ず行く」と答えた22.8% の人を除けば8割前後となるということを行っているのだと思いますが、この8割近い人たちを同一のグループであるとして括り、だから「国民の要求とはおよそかけ離れた、とんでもない制度」であると結論づけるのは、ずいぶん乱暴だと思います。ここの箇所を読んだとき、私は意識調査の回答者の8割が反対しているのかと早とちりしました。
 次に、第2の理由についてですが、裁判員の判断は法廷に提供された事実によってなされるべきであり、マスコミ等の報道による予断を避けなければならないのですから、短期間に集中して審理するのはやむを得ないと考えます。さらに裁判員の負担を思いものにしないためにも審理が長期化しない方がいいのは自明の理です。
 なお、「思想信条の自由」とは、どのような思想信条であろうが、それを持つことと外部に表明することは自由な権利として保護されるというものです。憲法第19条の規定(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)は、個人行動の自由まで保障したものではありません。たとえば、聖書に書かれていないという理由によりわが子に対する輸血や手術を拒否する、という自由は場合によっては制限されることがありますし、オウム真理教による地下鉄サリン事件のように反社会的な行動は厳しく指弾されます。

 裁判員に選ばれたら辞退したい、と考える理由として「人を裁くようなことをしたくない」というのがあるのは理解できます。自分の判断によって、被告が死刑になったり無期懲役になることもあるわけですから、それが他人に与える影響はきわめて大きいといえます。したがって、そのような判断を下す立場になることにためらいを覚えたり、そもそも自分にそのような資格があるのかと疑いを持つこともあろうかと思います。そのような葛藤は避けたいという気持ちは理解することができます。

 しかし、人間には、何であろうと判断を下さなければならないときがあります。そのことを理不尽であるとか不当であるとかいうことはできても、結論を出さなければならない立場から逃避することはできないのです。
 このことは、責任とは何か、という設問に結びついていきます。
 光市の母子殺害事件の判決が第1審では無期懲役となったときに、おかしいと思われた方は大勢いると思います。最終的には死刑判決となりましたが、このときに、裁判官の感覚は市民感情とかけ離れているのではないかという批判がありました。裁判員制度を導入する理由には、市民感情を裁判に繁栄させようということもあると思います。
 テレビの前であれば自由にものをいうけれども裁判員としては判断したくない、というのは自分の言動に責任を負いたくないという気持ちによるものです。面倒なことは他人に任せて自分は傍観者でいたいというのは虫が良すぎると思いませんか?
 自分で決めたことは自分が責任をとらなければなりません。
 では、裁判員として判断したことの責任をとるとはどういうことをいうのでしょうか?
 それが死刑であれ、あるいは無期懲役であれ、被告と被害者もしくはその家族に大きな影響を与えるわけですから、そのことをいつまでも覚えておこうとすることが、自分の判断に責任をとるということになるのだと思います。

 先の戦争に負けたときに中国や満州から日本に引き揚げて来た人や、原爆が投下されたときに広島や長崎にいた人たちが自分の経験をいつまでも忘れずにいる(そしてその体験を他人に伝えようとする)のは、それが生き残った自分の責任であると考えるからです。
 このように考えることのできる人の心を尊いと私は思います。

 私は、裁判員制度が、個人の中に市民としての意識(この社会を維持するためには、他人任せではなく自分が社会に関わっていかなければならないという意識)を植え付ける契機になるのではないか、と考えています。そのことから、「本音は辞退したいが行く」と答えた人も含めると65.3%もの人が「行く」と回答したことをみると、私たちの社会は決して捨てたものではないと思えるのです。
by T_am | 2008-12-26 07:15 | あいまいな国のあいまいな人々

by T_am