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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

ダウンサイジング(2)  便利な世の中を維持するための対価

 日本という国は本当に便利な国であると思います。
 電車は時間通り来ますし、郵便物も途中でなくなるということは(たまにありますが)ほとんどありません。電話は24時間かけることができます(真夜中にかかってきた方は迷惑ですが)し、メールもそうです。電気やガス、水道も24時間いつでも使えます。ラジオもそうですし、テレビもほぼ24時間放送しています。インターネットも24時間利用可能です。
 私たちはこれが当たり前だと思っていますが、これらのサービスは基本的に年中無休です。ということは、人が休んだり遊んだりしている間、働いている人がいるということになります。
 このことは小売業や飲食業・サービス業では常識となっており、これらの産業に従事する人は、交代で休みを取り、全員が一斉に休むということは(原則として)ありません。 もうすぐ正月になります。
 年末年始の休みに帰省する人も多いと思いますが、その人たちを運ぶ電車・バス・飛行機・船といった交通機関は休みなく動いています。

 たとえば、飛行機が飛ぶために何が必要かを考えてみます。
 まず、操縦士と客室乗務員が必要です。それから安全に飛ぶための整備士が必要です。そのほかにも空港で働く人は大勢います。受付カウンターの職員、土産物売り場の店員さん、レストランの従業員、保安検査場の職員、売店のおばさん、搭乗口の職員、ボーディングブリッジを操作する人、預かった荷物を飛行機に運ぶ人、機内の清掃員、管制官など、乗客の目に見えないところで働いている人はまだまだ大勢いると思います。さらに空港に電力や水道・ガスを供給するために働いている人も大勢います。この人たちは交代で休みを取ることで年末年始でもきちんと飛行機が飛ぶようにしているわけです。
 これは、年末年始に稼働している他の交通機関でも同じです。
 ついでに述べておくと、飛行機が飛ぶためには、空港が必要です。空港の建設工事には大勢の人が従事したはずですし、その工事に使った原材料や建設機械をつくった人たちもそれぞれ大勢いるはずです。さらに、その機械の部品をつくった人、その部品を加工するための機械をつくった人もいます。そして、機械を動かすための燃料を採掘した人、運搬してきた人、さらにそれを精製した人たちがいます。

 このように考えてみると、無人島で自給自足をするのでもない限り、人間の営みには、それを見えない部分で支えている人たちが大勢いることがわかります。その人たちがきちんと働いていることによって、よほどのことがない限り、飛行機は時間通り安全に運行されているのです。
 その代わり、この目に見えない役割の連鎖のどこかで誰かがさぼったり、誤魔化したりすると、その結果は川下に現れてくることになり、飛行機の正確さ、安全性、快適性は損なわれることになります。
 
 私たちが消費者として口にするもの、手にするもの、身につけるもの、利用するもののすべては他人の手によってつくられたものです。ひとつの製品をつくる、あるいはひとつのサービスを提供するための工程は、ひとつ遡るたびに広がっていき、結果として無数の工程の末にそれらの供給が可能となっていることがわかります。
 そして、私たちは消費者でありながら、ときには供給する側として、これらの無数の工程のどこかを担っていることも忘れてはなりません。
 最初に述べた「日本は本当に便利な国です」というのは、このように、目に見えない役割の連鎖の各過程において誰もがまじめにきちんと仕事をしているおかげで、日本の社会の安全性・快適性・正確性・利便性が維持されているということを意味しています。既に述べたように、どこかで誰かがさぼったり誤魔化したりしていると、それは川下に現れます。たとえば、建物の強度計算を偽ったり、品質や賞味期限を偽装すること、手抜き工事をするとどういうことになるかの実例を外国も(含めて)私たちは嫌というほど目にしてきました。

 今まで述べてきたことについて、私たちは消費者の立場から、特に意識することもなく当然であると思っています。自分はそれに対してお金を払っているのだから、その金額に応じた品質とサービスのレベルが保証されるのは当然であると。
 しかし、本当にそうだといえるでしょうか?

(サービスのレベルや商品の品質)≧(対価として支払う金額)

 私たちが通常思っていることを数式にして表すとこうなります。そして、私たちは、このことが市場原理が導入されることで実現されると信じています。
 自由競争の元で仮に、

(サービスのレベルや商品の品質)<(対価として支払う金額)

 であれば、それは「神の見えざる手」によって市場から駆逐されるはずだということになるからです。
 ですから、市場原理という考え方があまねく行き渡ると、「自分はそれに対してお金を支払っているのだから、その金額に応じた品質とサービスが保証されるのは当然である」という論理が自然発生してきます。つまり、供給する側にはサービスのレベルと商品の品質を保証する義務があって、それをしない者は市場から駆逐される、と考えられるからです。
 この論理自体は間違っているとは思いません。
 しかし、この論理をあざ笑うかのような事例が相次いで告発されているのも事実です。いわゆる偽装問題ですが、中には会社が潰れてしまったところもあるのに後を絶たないのはなぜなのでしょうか?

(サービスのレベルや商品の品質)>(対価として支払う金額)

 であるとき、消費者はそれを「値打ちがある」と思い、そのような買い物をしたいと望んでいます。つまり左辺はそのままで、右辺を小さくしたいと考えるわけです。そのために、チラシを一生懸命眺めたり、店ごとの価格を比較したり、あるいは値引交渉をします。それが賢い消費者としての行動であることを私たちは信じています。
 私たちが買う立場のとき、この不等式の右辺を小さくしたいと思うように、売る立場にいる者が右辺を大きくしたい、そのためには左辺を小さくしても同じことであると考える人がいることもあり得ることでしょう。要は、左辺が明らかに小さいことがはっかくしなければいいと。
 これを、経営者のモラルの低さや学習能力が欠落しているといってしまえばその通りなのですが、私は、供給する側に善良さや勤勉さが欠けていると市場原理は機能しない、と思っています。
 たとえば、船場吉兆が廃業せざるを得なかったのは、あまりのひどさに客足が途絶えてしまい、会社を維持することができなくなったからです。
 偽装が発覚して潰れた企業もあれば潰れなかった企業もあります。その違いは、発覚した際の経営陣の対応の差によるものであり、それによって注文が途絶えてしまうか再開されるかが分かれたからに過ぎません。船場吉兆が市場原理によって潰れたのであれば、赤福も石屋製菓も潰れているはずです。でも実際には、船場吉兆は潰れ、赤福や石屋製菓は潰れませんでした。
 この疑問に対して考えられる結論は「市場原理は機能していない」ということです。あるいは、「市場は過ちを犯すことがある」ということもできると思います。
 
 公共サービスを民営化すれば、市場原理が導入されてよくなると思うのは早計です。
 国鉄は民営化してサービスがよくなったという人がいますが、これは短絡的すぎると思います。民営化によって私鉄と競争するようになったからだと思われていますが、実際に旧国鉄の路線で廃線となったのは競争がない過疎地の路線か新幹線が通ることによって自社競合が起こった路線であって、私鉄と競合している路線が廃線となったわけではありません。民営化することで消費者の批判に晒されることを恐れたためにサービスが良くなったに過ぎないのです。
 上越新幹線と東北新幹線は一時期、テロ対策のためと称して車内のゴミ箱を使えなくしていました。しかし、はるかに旅客数の多い東海道新幹線では車内のゴミ箱はちゃんと使えましたし、山陽新幹線に至ってはゴミを回収するお嬢さんが車内を巡回していたほどです。同じ民営化会社なのにいったいこの違いは何なのかといえば、お客が文句を言うか言わないかの違い(上越新幹線は社内のゴミ箱が使えませんと大阪の人にこぼしたら、大阪でそんなことしたら暴動が起きますよ、といわれたことがあります)によるものでしょう。
ここでも、市場原理は機能しているとはいえません。市場原理の成果といえるのは、競合する私鉄との速さ(所要時間)の競争ということになります。

 市場原理に頼りすぎると、私たちは「目の前の取引にのみ関心を向ける」ようになります。というのは、自分が購入する商品の品質やサービスのレベルを保証するのは売り手の責任だからです。そして、その対価として代金を支払いさえすれば自分の義務は果たされると思うようになります。
 万引きをして捕まった者が、「金を払えば文句ないだろう」といって逆ギレすることがあるのは、代金を支払うことで通常の売買が成立するのだから、自分が万引きをした事実は帳消しにできると思い込んでいるからです。
 
 冒頭に述べたように、私たちが日常行っている「買い物」が成立するためには、それ以前に無数の人たちが関わっています。もしかすると、私自身もそのどこかの工程に関わっているかもしれません。このことは、勤労経験のあるすべての人にいえることです。
 そして、視点を変えれば、私たちがしている仕事の後には、どれくらいあるかわからないけれどもいくつもの工程があって、最終的に消費者にたどり着くということがわかります。その消費者というのは一人や二人ではすみません。日本の社会はそれほど複雑になっているのです。
 この社会を維持するためにはコストがかかり、私たちはそれを、モノやサービスを購入する対価として支払うことで負担しています。税金も公共サービスを受ける対価として理解することが可能です。
 「目の前の取引にのみ関心を向ける」ことが癖になっていると、自分はちゃんと金を払っているんだから自分の権利を主張するのは当然だ、というふうに思いがちです。
 しかし、私たちの社会は無数の人が関わることによって成立しているわけであり、自分もその関わりの一端を担っているわけです。
 したがって、お金さえ支払っていればこの社会が維持できるというわけではありません。この社会を維持するために私たちがしなければならないのは、お金を支払うことだけではなく、「この社会と関わっている」ということであり、自らの役割に最善を尽くすという良心です。
 すべての価値は金銭で測定するという考えは、この「良心」を蔑ろにすることがあります。現に、バブル崩壊後、人間をコストとしてしか理解しない経営者と投資家たちは後を絶ちません。このような考え方が社会を蝕んできたことは、皆様思い当たることがおありかと思います。
by T_am | 2008-12-23 07:38 | あいまいな国のあいまいな人々

by T_am