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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

リミッターの解除

 私たちの身体の中には、自分の衝動を抑制するための数々のリミッター(制限機構)が組み込まれています。リミッターというのは、自分が何かをしようとしたときに、それを躊躇させる精神的なメカニズムのことをいいます。
 私たちが人殺しや盗みなどの犯罪を犯さないでいられるのは、自分の身体の中にこれらに対するリミッターが組み込まれているからです。これこれこういう理由によって人を殺してはいけない(盗みを働いてはいけない)と納得しているからではありません。その証拠に、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と訊かれたときに、きちんと答えられないでしょ?
 「人を殺すのは悪いことだから」というのはダメですよ。「なぜ悪いことなの?」と重ねて訊かれたら答えにつまるでしょう。「なぜ?」「それはなぜ?」と掘り下げていくと解答がみつからなくなることからわかるように、人を殺してはいけないと私たちが思っているのは、何かの論理に基づくものではないのです。
 動物には本能が備わっており、基本的に、動物は本能に基づく衝動に突き動かされて行動します。捕食する本能、自分の身を守る本能、テリトリーをつくりこれを守る本能、生殖する本能、子育ての本能など。
 リミッターにはこの衝動を抑制する作用があり、人間だけに備わっているわけではありません。たとえば、動物も、自分のテリトリーを守るために争うことをしますが、殺し合いになることは滅多になく、一方が降参するか逃げ出すかすればそれ以上攻撃することはありません(ただし、ライオンのように、グループを乗っ取った雄が、前にいた雄の子どもをみな殺しにする-授乳期間中の雌は妊娠しないため-という例外はあります)。
 リミッターが生まれつき個体に備わっているものであるかどうかは、私には断言できません。しかし、明らかに後天的に組み込まれたリミッターも存在する(文化によって異なる場合がある)のであり、それを私たちは「モラル」や「マナー」と呼んでいます。

 リミッターとは、「躊躇させる精神的なメカニズム」ですから、無効になったり解除されることがあります。
 リミッターを無効(リミッターが起動しない)にするものとしては、飲酒や薬物使用があります。酒に酔ったあげく婦女子にわいせつ行為を働いて逮捕された男は枚挙に暇がありません。酔うことでリミッターがマヒする、ということはあります(だからといって許されるものではありませんが)。
 リミッターを解除するものには、自分の意志や抑えきれない感情・欲望があり、さらには付和雷同、周囲の人間による影響もあります。付和雷同の例として、人が赤信号で横断歩道を渡っているのにつられて自分も渡った、という経験をお持ちの方は多いと思います。周囲の人間による影響というのは、たとえば群集心理を思い出していただければよいのですが、具体的にいうと、集団によるリンチは必ずエスカレートします(いじめもそうですね)。これは、当初はリミッターが起動するのですが、それが働かなくなることからきています。
 自らリミッターを解除する例で有名なのは、映画「風と共に去りぬ」第1部のラストで、スカーレット・オハラが荒れ果てた故郷の農場に帰ってきて、
"God is my witness they're not going to lick me! I'm going to live through this and when it's all over, I'll never be hungry again!"
と天を仰いで叫ぶシーンがあります。意訳すると、「もう誰にも手を出させません。どんなことをしても、人を殺してでも生き抜いてみせます。二度とひもじい思いをしません。神様に誓います!」となるのでしょうか。神様に誓うところが印象的でした(信仰心のない日本人にはできない発想だと思います)。
 このことから、宗教は必ずしもリミッターとはならないことがわかります。そういえば、イラク戦争を決断したジョージ・ブッシュ大統領は熱心なキリスト教徒であること、およびイスラム教原理主義者たちによるテロ行為を考えると、宗教的原理主義はむしろ人間の持っているリミッターを解除する方向に作用するといわざるを得ません。

 人間に組み込まれていくリミッターは、文化の違いによって異なり、また同一の文化を持つ人の間でも個人によって強弱の差があります。しかし、原則として、同一集団に属す人々の間には共通するリミッターが存在します。それは、リミッターによって個人の欲望を制限した方が、かえって集団全体の利益(すなわち個人の利益の合計値)を増加させるからです。
 収穫した米や麦を全部食べてしまえば、来年の種まきはできません。人間の欲望が制限されることなく解放されてしまうと、自然が持っている回復能力の限界を超えて資源を食い尽くしてしまいます。
 キリスト教原理主義者の悪口になりますが、神は人間に治めさせるために自然をつくったのだから人間は自然を好きなようにして構わない、と彼らは考えます。アメリカが京都議定書から離脱したのには、このように考える社会的勢力が国内にあるからです(私は、京都議定書の取り決めがいいとは思いませんが、地球という環境が有限のものであると認識することは必要だと思っています)。

 昨今の日本のように、自殺者が年間三万人を超えるというのは、このリミッターが外れてしまった人が至るところにいるからだと思われます。
 どうしてそうなってしまったかといえば、消費することで自分の個性を発揮できると誰もが思うようになったからです。ブランド品を身につける。三つ星レストランで彼女と食事をする。あるいは行きつけの店を持つ。そうすることが自分らしさの発露につながるのだと誰もが思っています。確かに、こういうリッチな生活は、私たちに満足を与えてくれますが、反面、麻薬と同じで依存性が高いといえます。よく言うでしょ。生活レベルを落とすのは難しいと。つまり、それなしではいられなくなるわけです。
 レベルの高い消費生活は、それだけ多くの金を必要とします(当たり前ですね)。
 その結果、国をあげてエンドレスのゲームが行われているように、私には思えます。持ち金がある限り(サラ金で借りたり、ローンを組むことも可能です)ゲームに参加し続けることができますが、運悪く持ち金を使い果たしてしまうとゲームオーバーとなります。
 これは一種のサバイバルゲームですから、生き残った者が勝ちということになります。いちいち逡巡しているようでは勝ちはおぼつきません。反則すれすれのことをしても、要は勝てばいいんだろ、と思えるプレーヤーの方が有利に戦うことができるのです。
 悪いことに、今後は少子化で人口が減っていくので、流通するチップ(お金)の絶対量が減っていきます。そうなると一人あたりの持ち金は減っていくことになりますから、必然的に強いプレーヤーがチップを独占することになり、弱いプレーヤーはそれだけ持ち金が乏しくなってしまいます。
 プレーヤーにとって、ゲームの終了は自分が脱落することを意味します。
 ですから、これはあまり割に合わないゲームであると思います。

 では、どうすれば自分の身を守ることができるかというと、ゲームに参加しないことがもっとも安全で確実な方法です。具体的にいうと、得られた収入で満足して分不相応な消費は望まずに、その範囲内で生活するということになります。
 そのような人たちが増えていくことで、私たちが持っているリミッターが再び作動するようになり、結果として全体の利益を個人が享受できる世の中になっていくのだと思います。
by T_am | 2008-12-10 07:23 | 社会との関わり

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