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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

自分のよりどころ(2)

 前回(正確には前々回)、人間は自分以外の者との関わりの中でしか自分自身を発見することができない、ということを書きました。
 赤ん坊が生まれると、母親(そして父親)は我が子に毎日語りかけます。



「イチローちゃん、ミルクでちゅよー」
「イチローちゃん、お風呂に入りまちょうね」 etc・・・

 ほかに祖父母や兄弟姉妹がいれば、彼らもその語りかけに加わります。赤ん坊にすれば、その語りかけが自分に向けられているものだと認識することで、自分という存在をまわりのものと区別することができるようになります。そして、この認識には言葉就中名前が重要な役割を果たすのです。
 やがて幼児は、自分がイチローという存在であることを知ります。だから子どもが最初に自分のことをいうときに名前でいうわけです。このときに(あるいはもうちょっと大きくなってから)親が、我が子に向かって「自分のことをいうときは、ボク(ワタシ)というんだよ」と教えて初めて、「ボク」や「ワタシ」という1人称代名詞を覚えます。
 それはともかく、人間は他者を示すときに、その人の名前を用います。家族であるとかよほど親しいときは名前の呼び捨て、その人に対して親しみを持ってはいるけれども呼び捨てが憚れるときは「ちゃん」づけ。ただし、親しい仲でも自分と対等もしくは相手の方が下であると思ったときは、友人を名字の呼び捨てで呼ぶ場合もあります。そうではない場合(それほど親しくない場合と親しいけれども一目置くという場合)は、名字に「さん」づけか「クン」づけをします。
 (これらは一般論ですので、中には例外もあるでしょう。そのつもりでお読み下さい。)
 人間が成長していくと、相手を氏名ではなく、肩書きなどの役職名で呼ぶことを覚えていきます。
「先生」「先輩」「社長」「部長」「課長」「店長」「理事長」「組合長」などがそうですね。 これらの呼び方は、名前で呼ぶことが失礼に当たるという意識に結びついています。会社によっては、社内では肩書きで呼ぶのではなく、「さん」づけで呼びましょうというところもありますが、さすがに社長に対しての「さん」づけは抵抗があるようです。
 肩書きで呼ばれることによって、その人の中に「肩書きに対する自覚」が生まれてくることがあります。いわゆる「立場が人をつくる」というやつです。
 たとえば、スズキ部長とよばれることで、その人の中には、それまでの「スズキという自分」に加えてcが明瞭に意識されていくようになります。日本人が持っている「公」という意識は、その人が地位や役職を得ることによって熟成していくものであるように思います。すなわち、「課長という自分」「部長という自分」「社長という自分」を意識することで、それぞれの地位や役職に付属する責任感や使命感を自覚していくからです。
 「スズキという生まれついての自分」と「スズキ部長という自分」は同じではありません。前者が「私」であるとすれば後者は「公」になります。この二つは別なものであるから区別しなければならない、というのが「公私のけじめをつける」ということなのです。
 しかし、地位や役職を得ることは、同時に権力というパワーを行使することの爽快感も知ることとなります。
 やっかいなことに、権力を行使することで得られる爽快感には、フォースの暗黒面のようなところがあって、人間を虜にする魔力があります。だからこそ、己の欲望を抑制するために、古人は「己の欲せざるところを人に施すなかれ」ということを説いたのです。
 「己の欲せざるところ」というのは、人間の欲望がもたらす害悪を自分が被害者になったつもりで想像せよ、という意味です。また、後半の「人に施すなかれ」とは、自分が不愉快なことは他人も不愉快に思うのだからそういうことはしてはいけない、という意味です。
 このような意識の有り様は日本人には馴染みの深いものですが、己の欲望だけでなく感情まで抑制するようになってしまうというマイナス面もあります。事実、己の感情をむき出しにすることは不作法なことであり、情緒に安定を欠いていると長い間思われてきました。例として、酔っぱらって自制がきかなくなった人を思い浮かべてください。説教が止まらなくなる人、泣き出す人、ぼやきが止まらない人、怒り出す人、千鳥足になる人、助平になる人。いずれも、ああいう無様なまねはしたくないと思わせる行為です。
 自制心が強い人は、普段の感情の表現に対してもこれを抑制しようというのが習慣となっており、その結果、おとなしい人、何を考えているかよくわからない人、と誤解されることがあります。
 それは確かに損をしていると思いますが、仮にあなたがそうだとしても、そのことを気にする必要はありません。人間は誰でも、すべての他人から好かれるということがあり得ないように、自分を理解してくれる(あるいは好きになってくれる)人が世の中には必ずいるからです。それは10人に1人かもしれませんし、もしかすると100人に1人かもしれません。大切なのは、その人数ではなくて、自分をきちんと見てくれている人が必ずいる、ということなのです。

     「だれかが風の中で」  作詞 和田夏十 作曲 小室等  唄 上条恒彦

  どこかで だれかが きっと 待っていてくれる

 
 人間は自分以外の者との関わりの中でしか自分自身を発見することができない以上、自分のよりどころ(居場所)となるのは、他者との人間関係をおいてほかにありません。
 同じ居場所であれば、少しでも心地よい方がいいに決まっているのですが、そのことについては別な機会に考察してみたいと思います。
by T_am | 2008-10-28 00:46 | 心の働き

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