ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

 米山候補に当確が出ましたね。これで当分柏崎刈羽原発の再稼働はなくなったということになります。
 それで一安心という人も多いかもしれないので、敢えて書いておきますが、原発はその運転を停止しているからと言ってリスクがゼロであると言い切れるかというとそうではありません。というのも、原子炉建屋内には使用済み核燃料が冷却プールに保管されているからです。使用済み核燃料といっても臨界状態にないだけで、放射性物質の核崩壊は相変わらず起きているので、その熱を冷やしてやる必要があります。(福島第一原発では緊急停止にはせいこうしたもののこの冷却が途絶えたためにあれだけの事故になったことを思い出してください。)
 したがって、原子炉が再稼働していなくても何らかの事故が起こり、使用済み核燃料の冷却ができなくなってしまった場合、福島第一原発と同様の事故が起こる可能性が否定できないのです。
 このことを考えると、原発については即廃炉というのが合理的な判断であるといえるでしょう。これから県知事となる人が県民の安全を確保するというのなら尚更です。

 泉田知事が口癖のように言っていて、米山候補もそれを受け継いだ「原発事故の検証がなされない限り再稼働を認めるわけにはいかない。」という発言は実に巧妙な発言であるといえます。というのは、原発事故の検証を行った結果これならば事故を防ぐことができると認められれば再稼働に同意するという意味になるわけですが、現実問題として未だに原子炉の内部に入ることができないわけですから、事故の検証などいったいいつになったらできるのか誰にもわからないわけです。したがって、このような言い回しをすることで、事実上原発の再稼働を認めないという判断しているにもかかわらず、その責任は自分にあるのではないということにしているわけです。
 政治家は強大な権限を持つだけに、その決定に対して責任を負ってもらわなければなりません。責任を負うべき人が責任を負わないで権限だけをふるうとどうなるか? その典型的な事例が豊洲市場への移転を巡る混乱ですし、もしかすると東京オリンピックもそうなるかも知れないのです。

 そうはいっても、実際問題として柏崎原発の再稼働を阻止しているのだからそれでいいじゃないか、という意見もあるかもしれません。しかし、それでは自分が主張する結果に導くためにはどのような手段をとっても構わないということになってしまいます。それがエスカレートしていくと、再稼働を阻止するためにはデマを流しても構わないということなります。
 現政権が、集団的自衛権のための安保法制を成立させたときに、それが必要な理由としておよそあり得ないケースが挙げられていました。その挙げ句に、国会の特別委員会に他の委員会の委員たちが乱入してきて議事を混乱させた中で無理矢理可決されたことにしてしまいました。(後日その時の議事録は書き換えられてしまいました。)
 大事なのは結果であってその過程はどうでもいいのだ、というのであれば、安保法制を可決させたようなことがこれからも起こりうるということになります。国政だけでなく、地方自治の場でもそのようなことが横行するようになったとき、この国は滅びの途を進むことになるのだといわざるを得ません。
# by t_am | 2016-10-16 23:01 | その他
 今回は第十三条と第十四条について考えてみたいと思います。

1.わかりにくい13条の変更
(日本国憲法)
第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

(草案)
第十三条(人としての尊重)
  全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない

 ここで変更されているのは、「個人として」が「人として」になっていること、および「最大の尊重を必要とする」が「最大限に尊重されなければならない」に変わっていることです。
 これらの変更は、前回も申し上げたように、国民を上から見下ろすことによって人権を制限するという立場で書かれたものです。「個人」が「人」に変わるからといって、何が変わるんだと思われるかもしれませんが、それはこういうことです。
 「個人」というのは独立した人間のことですが、これを「人」と言い換えることによって、「家族の一員としての人」や「組織の一員としての人」というふうに扱い、これを憲法で規定することができるようになります。

 ポイントは、憲法を改正する内容によっては、それまで制定することができなかった法律が制定できるようになるということです。このことは、後に出てくる第二十四条(家族、婚姻等に関する基本原則)で明らかになっていきます。

 次に「最大」と「最大限」の違いですが、これは限度を設けるかどうかの違いになります。つまり、限度を設けた中でのぎりぎり目一杯が「最大限」ということになります。その場合、誰が限度を設けるかについては、法律を作る人たちであることはいうまでもありません。
 一方「最大」というのは限度がないのですから、理想を追求することも可能です。本来憲法は政治権力に対し制約を加える一方で、理想社会を実現するための道程標とでもいうべき役割を担っています。これは、今は実現されていないけれどもわたしたち国民の「不断の努力」によって実現するのだということを意味します。例を挙げるならば、貧困の解消や社会的弱者に対する偏見や差別の撤廃、女性の社会進出などがあります。
 けれども、「最大限に尊重」とすることによって、あらかじめ限度を設けてしまい、その範囲内で法律や政令・通達をつくることができるようになるわけです。たとえば、生活保護を受けている人が酒を飲んだりパチンコをした場合は生活保護の支給を打ち切るとか、エアコンのある建物に住んでいる人は生活保護の申請ができないようにする、といったことも可能になるわけです。

2.さりげない変更が怖い
(日本国憲法)
第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
②華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

(草案)
第十四条(法の下の平等)
全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2華族その他の貴族の制度は、認めない。
3栄誉、勲章その他の栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 第十四条では、第一項に「障害の有無」という文言が追加されています。素直に読めば障害者を差別してはいけないということになるみたいですから、歓迎すべき変更なのかもしれませんが、はたしてそうでしょうか?
 この文言を追加することによって、障害を理由に国民の義務を免除もしくは軽減されるようなことはないのだ(それが法の下の平等なのだから)というふうにすることもできるということは覚えておいた方がいいと思います。

 もう一つの変更は、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。」という文章を削除しているということです。これは、叙勲者には特権を与えることが可能になるということを意味します。そうなると、政府を支持することを条件に叙勲するということも行われるようになるわけですから、いったい誰のための国なのだということになってしまいます。まさに、時代と世界の趨勢に逆行する憲法草案であるといえるでしょう。
# by t_am | 2016-09-04 23:18 | その他